「はぁ……」
情けない空気が漏れる。ここに来るまで通算5回目。
自分の喉からじゃなければ聞き逃すのに。
なんなら誤解もため息ついたことに対してため息つきたくなる。
サクラチルとはよく言ったものだ。何もこんな時に散らなくてもいいっての。水分が入った花びらは、綺麗さ儚さは見る影もない。ただ、靴裏に引っ付いて鬱陶しいだけ。
面接に落ちたことは予想以上にメンタルに響いているようだ。抑え方も分からないけれど。
「人生の、こんな初めの方からつまづいてどうすりゃいいってんだ」
零れた言葉にも覇気がない。
どうにもベッタリとした不安が拭えなかった。
そんな時。
みー。
気の抜けた声。
探すつもりはなかったが、視線を上げた先でつと目に留まる。街路樹の真ん中くらい。枝の上にふわふわな毛玉、黒ぶち模様がてんてん。サイズから見るに子猫だろう。
「なんであんなところに」
興味を引かれた。可愛らしいからか、それとも何かを得ようと必死だからか。
みゃおみゃみゃ鳴きながら必死に手を伸ばすその姿に、誰かを重ね合わせてしまう。上の方を見ると風船が引っかかっている。なるほど。事情は理解した。けれど子猫の力じゃ身の丈に合わない願いだろう。なにせするする登れるような筋肉だってまだ付いていないはずだ。諦めた方がいい。冷静な誰かが呟く。疲れきったような声で。まぁ外野の、しかも心の中からの声なぞ届かないだろうが。
今の位置では届かないとわかったのか、子猫は幹へと爪を立てしがみつく。見てるだけで危なっかしい。ぷるぷる震えている体が、今にも地面へと叩きつけられないかとハラハラする。目を離してしまえば自分と関係の無い出来事。凄惨な場面を見なくてすむ。こんな気分の時に追い打ちをかける、そんな光景は。
けれど、全くもって自分はその場に縫い止められている。何故か。あの子猫に見張るだけの答えがあるからなのは分かっている。
子猫は順調、とはとても言えないが徐々に目標のものへと近づいていた。頼れるのは自分の爪だけ。ガリ、ガリ……なんて現実では聞こえていないけど、それぐらい世界が静かに感じられる。その光景に瞬きすら忘れてしまう。噴火の直前のように体の中が煮えたぎるようなそれでいて凍てついているような。
風でその姿が揺れる度、途中で止まる度心がざわめく。しがみついて耐えた時、枝で休む時握っていた拳から力が抜ける。それはドラマであった。自分が傍観者でしかないのも含めて。
何時間も経ったように感じる。実はそれほど経っていないのかもしれない。
だが、遂に子猫は木の天辺まで登りつめた。諦めない姿勢が遂にその手を届かせたのだ。
「やった……!」
他人事に関わらず、思わずガッツポーズ。
何となく勇気を貰えた。
だから、そこで終わっていればただそれだけの話だったのだろう。
背を向けようとした瞬間、一際強い風。
「あの子は……っ!」
思わず息を呑む。
それは、もうダメだった。
手が届いたところで、全てを無にする、それは。
猫が木の上から踏ん張りも効かず、ただ地上へ落とされる。掴んだ風船は話していなかった。だがそれがなんだと言うのか。
「くそっ」
間に合わない。分かっている。
だがそれでも、と走り向かう。
間に合え!
祈り虚しく、子猫の方が地表に着く方が早い。
思わず目を閉じてしまう。もうこれ以上、何も見ない。見たくない。
闇に包まれた視界で、嫌に軽い音が響く。
嫌な。
みー。
恐る恐る目を開けると、とぼけた顔の子猫がきちんと着地をしていた。
そこでようやく気づいた。
自分は本当にただの部外者。
子猫が頑張っていたのを自分に重ねたのも、落ちたのを助けようとしたのも、人間の自分のエゴであった。
何も何も。自分が気にする必要すら無かった。
「なんだよ、全く」
だから。
子猫のことを安堵するのはきっと間違いなのだろう。
落ちて、風船も得て、命も失っていない。
そんなことを安堵するのも、きっと。
「しゃあねぇ、これから頑張るか」
桜色の絨毯を踏みしめながら、家路へ急ぐ。
熱を忘れないように。
秋風
ひゅるりと冷たい風。ブルりと身体を震わせ、家路へ急ぐ。上着はあるがそれでも、今は当たりたくない。
「あんたにはわかんないよ」
からっ風のようなそれが、ぼくの積もった枯葉のような自尊心を吹き散らした。
まともな受け応えも出来ず、ただその場から逃げてしまったのも含めて本当によく似ている。
善意のつもりだった。彼女が、学芸会の練習に来れない理由を探してそれを解消しようと立ち回った。今思えばそれそのものが余計な事だったんだろう。彼女の同意も得ず、彼女がどういう気持ちかも考えずただクラスの為を思って動いた。分かってる、酷い独善だ。
秋風のように冷めた目で言葉で、突き放されても文句は言えないぐらい。そもそもの発端が
「あぁ、一緒に劇やりたかったな……。あの子となら楽しかったのに」
と、浅い理由。クラスのためですらないのだから。
当然、高い空に呟いたソレは誰にも届かないのだろう。風に連れられ遠く遠くへ上る。見えないところで弾ける。
それだけのはずだった。
「ふうん、ばかみたい」
背後から、今1番聞きたくない声。
そこに居たのはやはり、僕の意識を占めるあの子だった。息が抑えられず、頬もリンゴのようだ。寒空の下、急いできたのだろう。
そこまでして、僕に悪罵を吐きに来たのだろうか。性格は悪いと思うが、今の僕は全面降伏する他ない。ただ、何となくその子がそんなことするのは想像がつかなかった。
なんと言っていいか分からなかった僕は、ただ黙ってその子を見つめる。すると、もじもじとしていたその子はふぅ、ふぅと息を整える。
そして、強く息を吸うと
「あのね、あん時はごめんなさい。言いすぎたわ」
バッと頭を下げる。
なんで、この子がこんな。混乱が支配した。さっきの想像よりもさらに想像がつかない。僕が固まっているせいかその子も頭をあげるタイミングを失っている。
カラカラと落ち葉が笑う。
ええいこのままじゃ埒が明かないか。
気持ち的に1歩踏み出してみる。
「な、なんでそんな?」
出てきたのは馬鹿みたいな問いかけ。だがキッカケとしては丁度良かったらしい。
「その、ね。私はやりたいこと、やってるの。お父様とお母様からの期待もあるの。小さい時から、ずっと。それを理由に断ることが多くなったら誰からも誘われなくなったわ。だから、あんたからあんなこと言われた時も、意固地になっちゃったの」
目を逸らしつつも、堰を切ったように一気に話す彼女。けれど、それなら尚更の話。僕を追いかけて謝るなんて大人な対応しなくて良いのに。僕が悪いのだから。
「違う。あの後、他の子から聞いたのよ。
さっきの独り言みたいな事情を、ね。」
「な、あ」
顔が火が出るかのように熱い。今日が気温低くて良かった。本当に。咄嗟に顔を伏せる。
が、グイッと顎を上げられる。赤みがありつつも、ニヤリといたずらっ子のような表情は小悪魔と言って差し支えない。
「ね、あなた。私と、「わ、た、し、と」やりたかったのよね?」
「いえすまむ」
這う這うの体でそう答えると、更に笑みを深くする。
そして、僕から距離を取る。
「ふうん。ばかみたい」
そして、チラリとこちらを振り返りつつこういった。
「安心なさい、あんたのその勇気に免じて明日から何とか時間を作る」
「急すぎないか話が」
「もう、察しが悪いわね。」
少しばかり考える姿勢をとる彼女。何となく僕が悪いのは分かるが言葉が足りないのは、あっちのせいでは?と思わなくもない。けれどここで口を挟んで今みたいな奇跡を取り逃すのも良くない。
それが功を奏したのか。はたまた、秋の神様の魔法か。彼女は、小悪魔のように、そしてリンゴのように甘い顔でこういった。
「そういえば、今日は風が冷たいわね」
「だから、手を貸してくれる?」
それから。
僕は毎年、秋風と小悪魔に誑かされる。
また会いましょう
その言葉を信じたことなんてない。嘘つきが使う言葉だから。
じいちゃんはその言葉守らなかった。
親戚のおばちゃんも、いとこの姉ちゃんも、父ちゃんも母ちゃんもそうだ。みんなみんな二度と会うことなんてなかった。
だからオレは嘘つきにならない。そんな言葉は使わない。そう決めた。
消防隊員になる為、俺は必死になった。
幼馴染の洋子もおばさんも心配してたけど、実際努力するのは嫌いじゃないし、弟だけは兄ちゃんかっけぇって応援してくれた。ますますやる気が出た。
おじさんは無口だったが、時おりタオルやスポーツドリンクが無言で置いてあった。時おり、オレをじっと見つめ、その後仏壇の前に行くのが日課のようになっていた。
俺はそれまで本の虫だったから、消防隊員になるのなんてそれこそ血反吐吐くぐらい大変だった。それでも決めたことを曲げることなんてしたくない。俺は嘘つきにだけはならないようにしないといけない。
弟のことは絶対に守ってやる、という約束だってずっと守った。そのせいで訳の分かっていない大人たちからの覚えは悪かったが、仕方の無いことだ。そういう時のおじさんは決まって「……祥太」と一言俺の名前を呼び、「立派な男になれ」とだけ注意した。無口でいつも厳しい顔をしているし、怒るためにこと更にその雰囲気を強くしているようではあったが、それでもその顔はなんだか寂しそうに見えた。たくさんの言葉も強い声も無いが、その顔と相まって俺には余計に効いた。次第に俺は元の穏便な性格を取り戻していく。
23歳の夏。
洋子と結婚した。ずっと隣で支えてくれた、大切な人。中学、高校でからかわれたからと俺が遠ざけたことを未だにからかってくるのだけ、悪いところだがそこも含めて愛おしい。こいつにだけは嘘をつかないように。そう俺は決意を改めて固めた。
数年がたった。
洋子との間に生まれた子供は、夫婦からも弟からも溺愛されるくらいかわいい。その日も愛する我が子の成長に心絆されて、その後仕事へ向かう。近所に住んでたおじさんに声をかけ、意気揚々と。
気が緩んでいたのかもしれない。それがいけなかったのかもしれない。
突如警報が鳴り響く。方角は……「嘘だろ」
爆発的な火災が見える方にあるのは、妻子がいる方向。
おじさんも、弟も。
急いで現場に急行すると、妻とおじさんがいる。
だが弟も子どもの姿もない。察することは出来た。
「必ず助けてくる。」
俺は消火活動をつつがなく続けられるよう後続に指示を出してから、火の海へと足を突っ込む。嘘はつかないと決めたのだから。
どこもかしこも酷い状態だった。逃げ遅れた人の焦げた匂いもした。
そんな中、子供の泣く声がした。聞き覚えのある声。
急いで向かうと、熱に耐えて我が子を守る弟の姿があった。酷い火傷だがギリギリ助かる。
意識を失った弟と、泣いている我が子を背負い来た道をもどる。あと少し。
そこで、焼け落ちた柱が倒れ込んでくる。咄嗟に息子と弟を外へ放り投げることが出来たのは、1生で1番の仕事だったろう。我が子が手を伸ばす中、俺は最後に飛びっきりの嘘を言う。
何年も経った後にようやく気づいた。この言葉の意味を理解して。
「また会いましょう」
ばかみたいなじんせいなら、いっそ。
後悔しないくらいおもいっきり吸い込んだ。思ったよりも冷たくてびっくり。
視線は下を向く。今までとおなじ。問題ない。
目標は小さく、自分のためとすら考えられず。
迷惑なんてかけられず、息を止める。
私ごときのできることなら。
そう考えると体が爆発するように痛くなり、収まれば痺れるぐらいに凍える。
小さかったからすぐに手が届く。私にとっちゃ近づいてみればそれさえ大きく感じてしまうけど。
バクリバクリ心臓が吠えながら弱っていく。
私のカウントダウンは黒く刻まれていく。今手を離してしまえばきっと危険なく生きていけるんだろう。
けれども、1度決めて飛び込んでしまったなら、私の選択肢はとっくに2つの2つ。どっちも取るか、どっちも捨てるか。片方だけ、なんて大人みたいな冷静さも大人みたいな力もないから。
じゅわりじゅわりと骨に凍み込むような気持ちがする。けれどどこか温かさとも熱さとも一致しない、絵の中の炎が心で燃えている。
諦めるなんて、それこそ無理だ。
溺れそうになりながらも、固まった身体中の筋が引きつって悲鳴をあげても腕を動かす。
気がつけば白い天井。
見覚えは無いが薬品の匂い。きっと病院だろう。
驚くほどの体のだるさを押して、起き上がる。暖かい布団をかけてもらってるのに、私の体は死人のようだ。だが死人のようと感じられるのであればそれは生きているということ。成功はしたのだろう。フィフティフィフティじゃなく、100%に。
確信をもって隣のベッドを見れば、私の小さな目標だった女の子が横たわって静かに息をしていた。
確かに息をしていた。
体の力が抜け、ふたくとベッドに倒れる。
同時にとてつもない眠気がやってくる。
再度気がついた時は、女の子はいなかった。
ベッド脇にはただ一言の書き置き。
「ありがとう」
馬鹿みたいな人生ならいっそ。
スリルに笑って踏み出そう。
なに、最悪死ぬだけだ。破滅的だって?
違う違う。フィフティフィフティじゃなくて100%を選んでるだけだ。妥協したくない時はしないだけ。
それがリスクとリターンの狭間。スリルの為に私は生きていける。
猛烈な吐き気が襲う。
「うぉ、お、え」
ケミカルな光が俺を嘲笑う。映っているのは推しのアイドル。けれどそこに写ってる彼女は、いつも見ていた砂糖菓子のような無邪気な甘さはなかった。
暗い部屋に不気味に踊るテレビの明かりと同じ。
不倫。世の中どこにだってあること。きっとこれがどっかの政治家なら、ゴキブリをたまたま見つけたくらいの嫌悪で住んだのだろう。
だが、これは無理だ。全てを捧げると誓っていたんだ。芯が折れるとはこういう事なのだろう。昨日まで幸せに生きてた日常の真ん中のでかい穴。生きては帰れないと思う。
分かっている、これが俺の傲慢だってことには。
アイドルだって、普通の人間で、恋もして、それがもしかしたら他人のものだったりして、それでも諦めきれなくて、都合が悪くなったら喚き散らすんだろう。
だって造形はともかく同じ元素で構成されているんだから。俺と同じ思考だってするんだ。だから、アイドルだったからと言って許しちゃいけないなんてことはあっちゃいけないんだ。だからこんな風に心が悪々しく染まるの俺が、きっとどす黒いだけなんだろう。
だから少しでも、吐き出す。
「やっぱりやってたか」
暗い部屋にはいつの間にか光の筋ができていた。
目が道を辿ると先には、テレビの中の顔と産んだ人の次によく知る女の顔。俺と同じように同じものにハマった唯一の親友だった。
表情は逆光で見えない。だが、その声音はあまり苦しくはなさそうだった。そんな彼女が憎たらしくて、自己嫌悪に至って、だからこそ感情が抑えられない。
「うるさい、おまえなんかにはわかんねぇよ」
「わかんないかもな」
「だから、おまえが!! ……いや、早くあっちいけよ」
光を膝で塞ぎ、見えないようにする。せめてもの抵抗だった。流れたのは短いけれど、長く長く感じた。
とてつもない大きなため息が響くと、ダン、と音が目の前で止まる。
「あんたがなんで悲しんでんのかは分かってる、私も追ってたから」
何も答えない。答えられない。
ゲロまみれの口元は恥ずかしかった。
「けれどな、あんたの気持ちなんざずっとわかんねぇよ」
「しってるよ。だからどっかに行けって言ってるんだ」
「ちげぇよ、わかんねーから知りたいんだ。知りたいからそばにいたい。あんただから」
胡散臭い言葉に、うざけがさしてなにか言い返してやろうという気になった。単純なのだろう、俺は。
ノロノロと視線をあげるとテレビの光もドアの隙間からの光も見えなくて、よく知った女の目が間近に見えた。そんなに近いと思わなくて、身を引こうとする。
がそれより早く女の手が俺の後頭部に添えられる。
「ウザイのはわかってる、けどな」
近かった目が。
更に近く。
世界が灯りもないのに瞬く。
彼女の口は美しく穢れていた。
「あんたも私のこと知らないだろ」
考えがまとまらない。けれどこれがどこか良くないことなのは分かっている。片方翼が折れた鳥が、もう1羽の空を奪おうとしている、ような。
「あたしを見ろ」
その思考も全て彼女に塗りつぶされる。
もう一度スパークする。
「もうダメだ、もう飛べないなんて思うな。
半分だけで飛べない翼ならあたしが半分担ってやる。」
「でも、それじゃお前の行きたいとこに行けないだろ。アイドルになりたいって言ってただろ、お前は」
精一杯の反論の答えは。
俺が彼女が何故それを目指すか知らなかった、ただそれだけだった。