愛情とか
ある時とない時があって、ない時の方が貴重がられる。なんとなく健康という言葉もそれに近い。
また、人に押し付けたり、おしつけられると、言われた側は本当に嫌な気持ちになりやすい。
そもそも主観の要素が強いので、あったとかなくなったとか、本人にしかわからない。
表情や言葉や態度から読み解くこともできなくはないが、素直に表現するのは、歳をとるほど苦手になっていく。
なので、個人的には不可解だし専門外として、関わりたくはない。ただ、ない時というのは少しわかって。それは、その人が近くにいると、表情が硬くなり疲れて、少しでも距離をとりたくなる。
逆にある時は・・・正直自分では分かりません。もしかしたら、今まである時なんてなかったかも。
愛情という言葉でなく、大切に想うとか、自分よりも相手のことを優先している、ということはなんとなくあるけど、なんだかそれは愛情なのかと言われると、少しズレてるような。
そして、愛とか勇気とか、あった方がいいだろうけど、なくてもそれなりになんとか生きていけるということに、残念なことに気づいてしまっている。
微熱は何度
小さい頃は平熱が低い子供でした。平均体温は36度以下でした。なので37度台はきついだけど、「それくらいの微熱できつそうにして」とよく言われていました。
それがコロナ禍になると、体温で行動を制限するのが当たり前になってきました。こうなると私とは逆の人、平熱が高い人にとっては、生活しづらい社会になってきました。
平熱も微熱も、状況によって変わっていくようです。記憶は変わっていませんが、意味は変わってきました。
もしかしたら、思い出す度に記憶の意味変わっていくのかもと、最近は思ったりします。
太陽の下で
というのは長らく苦手でした。というのも、汗をかくと、とても生きている感じがあって、その生の充実感が、小さい頃からとても苦痛でした。
生きてるという感じが、どうしても自分の感覚に合わなかったのでしょう。自分の身体的な性に違和感を持つ人がいるように、汗をかいて生きる感じが、苦しかったのです。
そのため、小さい頃から、自分は周囲とは違う文化圏の人なんだ、と言い聞かせていました。自分と合う人は、世の中にいないと思っていました。
歳をとった今でも、周囲に合う人がいるかと言われたら、いないなあと思います。だけど歳をとってわかったことは
①合う人がいなくても生きていける
②逆に、全てが合うという人はいない
③他人は他人のことにそんなに興味ない
という事なので、自分が汗をかくと生きてる感じがして嫌、ということも、他人にとってはどうでもいいこと、というのもわかっています。だから、なんか違うんだなぁというのをデフォルトにして淡々としている方が、結果的に相手に共感を求めないから、人との関係はスムーズなのかなと思ったりします。
セーターはあんまり着てなかった
小さい頃は、あの柔らかい、幸せそうな感じが苦手でした。モコモコになるのも嫌だし、チクチクするのも嫌でした。
当時は、感情的なものをなくしたかったし、幸せやゆとりとは無縁の人生だと思っていました。
それが、だんだん歳をとるうちに、見たくない自分の不完全さと不甲斐なさを、見ざるを得なくなってきました。
そして、周囲が見えるようになり、実は身近にもっと大変で頑張っている人達がたくさんいたことに気づいてきました。
なので、自分ができることは何かを考えるようになったのと同時に、こだわりは大したことないなと思えるようになってきました。
そして、少しは柔らかい感じや幸せな感じだけでも、少しは受け入れるのも悪くないかなと思って、たまに着れるようになりました。チクチクはやっぱり苦手だけど、カラフルな色やかわいいデザインはいいなと思えるようになりました。なんだかゆるくなりました。
落ちていくのは
自分以外のものだったら、感傷的に見る事ができる。流れ星やミルクの王冠とか。しかし、自分が落ちていくのを感傷的に見るなんて、全くできない。
競争で負ける、試験に落ちる、失恋する、降格する、大切だった人達の優先順位から落ちていく、敏感だった感覚が鈍くなっていく、記憶が抜け落ちる・・・こういった自分に起こる事を、もののあわれのように受け入れるのは、本当に難しい。
本当は、自分が他者に向けるように、自分自身を客観視したい。しかし全くできてない。小さなことでずっとモヤモヤするし、何十年も前のことをふと思い出し、恥ずかしくなったりする。
その根底には、自分は特別で落ちるはずがないという、素朴な自己中心性があるのだろう。
でもわかってはいても、落ちていくような状況が起こると、すぐに感情的に自分を特別視してしまう。落ちたら悲しいしやりきれないし、最悪だーとグチグチ言うしグダグダするし、醜い。そんな自分を受け入れたくない。
それで、その後どうなるかというと・・・しばらく自分をいつものように特別視したあと、誰もそれに共感してくれないので、だんだん1人でグダグダすることに疲れてきて飽きてきて、なんて自分はめんどくさい奴だと思うようになって、ほんの少しだけ、自己中心性から距離が取れる時がある。ほんの少しだけ。