太陽の下で
というのは長らく苦手でした。というのも、汗をかくと、とても生きている感じがあって、その生の充実感が、小さい頃からとても苦痛でした。
生きてるという感じが、どうしても自分の感覚に合わなかったのでしょう。自分の身体的な性に違和感を持つ人がいるように、汗をかいて生きる感じが、苦しかったのです。
そのため、小さい頃から、自分は周囲とは違う文化圏の人なんだ、と言い聞かせていました。自分と合う人は、世の中にいないと思っていました。
歳をとった今でも、周囲に合う人がいるかと言われたら、いないなあと思います。だけど歳をとってわかったことは
①合う人がいなくても生きていける
②逆に、全てが合うという人はいない
③他人は他人のことにそんなに興味ない
という事なので、自分が汗をかくと生きてる感じがして嫌、ということも、他人にとってはどうでもいいこと、というのもわかっています。だから、なんか違うんだなぁというのをデフォルトにして淡々としている方が、結果的に相手に共感を求めないから、人との関係はスムーズなのかなと思ったりします。
セーターはあんまり着てなかった
小さい頃は、あの柔らかい、幸せそうな感じが苦手でした。モコモコになるのも嫌だし、チクチクするのも嫌でした。
当時は、感情的なものをなくしたかったし、幸せやゆとりとは無縁の人生だと思っていました。
それが、だんだん歳をとるうちに、見たくない自分の不完全さと不甲斐なさを、見ざるを得なくなってきました。
そして、周囲が見えるようになり、実は身近にもっと大変で頑張っている人達がたくさんいたことに気づいてきました。
なので、自分ができることは何かを考えるようになったのと同時に、こだわりは大したことないなと思えるようになってきました。
そして、少しは柔らかい感じや幸せな感じだけでも、少しは受け入れるのも悪くないかなと思って、たまに着れるようになりました。チクチクはやっぱり苦手だけど、カラフルな色やかわいいデザインはいいなと思えるようになりました。なんだかゆるくなりました。
落ちていくのは
自分以外のものだったら、感傷的に見る事ができる。流れ星やミルクの王冠とか。しかし、自分が落ちていくのを感傷的に見るなんて、全くできない。
競争で負ける、試験に落ちる、失恋する、降格する、大切だった人達の優先順位から落ちていく、敏感だった感覚が鈍くなっていく、記憶が抜け落ちる・・・こういった自分に起こる事を、もののあわれのように受け入れるのは、本当に難しい。
本当は、自分が他者に向けるように、自分自身を客観視したい。しかし全くできてない。小さなことでずっとモヤモヤするし、何十年も前のことをふと思い出し、恥ずかしくなったりする。
その根底には、自分は特別で落ちるはずがないという、素朴な自己中心性があるのだろう。
でもわかってはいても、落ちていくような状況が起こると、すぐに感情的に自分を特別視してしまう。落ちたら悲しいしやりきれないし、最悪だーとグチグチ言うしグダグダするし、醜い。そんな自分を受け入れたくない。
それで、その後どうなるかというと・・・しばらく自分をいつものように特別視したあと、誰もそれに共感してくれないので、だんだん1人でグダグダすることに疲れてきて飽きてきて、なんて自分はめんどくさい奴だと思うようになって、ほんの少しだけ、自己中心性から距離が取れる時がある。ほんの少しだけ。
夫婦っていうのは難しい
そこまでいくのも大変だし、そこからも大変。なら、そうしなくていいんじゃないかと思ったりするけど、なんだろうね。
今はそうでもないけど、同じ仕事を続けることに価値が共有しやすかった時代は、仕事を続けることは大変だ、という共通認識があったのかなと思う。
もしかしたら夫婦も、長く続けるのは大変だという共通認識があるのかな、なんて最近は思います。
ただ、仕事も夫婦も、ある方が一人前というマウントを取りやすい、取られやすいのはあるような気がします。
だから続けてる人もいるかもしれません。
あとは、日本の法制度で、身内とそれ以外は色々区別されるので、法の元でいるのなら、その制度を利用した方が手っ取り早い、というのもあるのかもしれません。保険の受取人、賃貸や入院やローンの保証人、緊急連絡先、など、婚姻制度を元にしたシステムで成り立っているから。
なんか、色々な要素がありすぎて、語る事、考える事が多すぎて、なにも語れないような状況に陥ってしまいます。だから夫婦は難しい。
どうすればいいの?
これはこれ、言われて困る言葉。これを人に聞く人は、本当は解決法を知っていて、でもそれをしたくないから人に聞く。
まれに本当にわからなくて聞く人もいるが、だいたいは、なんとなくわかるけど受け入れたくない、という事が多い。
ある偉い先生は言っていた「困った時は、三つの方法が思いついたらどうにかなる」。
だから私は、とても余裕がある時は、三つの解決法を提案してみて、どうかなぁと聞いてみる。でもほとんど「でも〜」と提案を聞き流され、エンドレスの「どうしたらいいの?」につきあう。偉い先生のようにはいかない。
そんな時は、私の考えを改める。これもコミュニケーションの一つだし、まぁいいか。