ブランコに乗ると、手が鉄臭くなる。強く記憶に残っている匂いだ。
大人になった今も、ブランコを見かけると、子供の頃に、遊んだあと手に移った鉄と錆の匂いが脳裏に浮かぶ。
でも不思議なもので、子供をつれて公園へ行き、一緒にブランコで遊んでも、あの冷たい鉄の香りを感じることはできないんだ。大人になって、嗅覚が衰えたか?
たぶん、衰えたのは感受性だと思う。色々なものを離れた視点で見るようになり…あの頃のダイナミックな、直接的な感動を感じることは少なくなった。
ブランコに乗っていた私の番は終わり。
次は子供たちへ、順番を譲ろう。
楽しんでくれればよい。
楽しんだら、また次の世代へ譲ってあげてね.。
旅路の果てに「楽しかった」と思えるようにしたい。
旅路の果ては、「死」だと思っている。
別にキザな詩人ぶっているわけでなく、毎日に変化や新しいことを学びつつ日々を過ごしていきたい。定期的にマンネリ化し、怠惰にダラダラと進むこともある。人との軋轢に嫌悪したり、社会に圧され疲れることもあるだろうけど、適度に休み、寄り道し、仲間や愛する人たちと笑い。独りを愉しみ。そして時間は過ぎていき、旅路を進む。
あと50年続く道かもしれないし、朝目覚めず、今夜で終わりかもしれない。旅路の終わりは、いつ訪れるかわからないから、果ての一瞬でも、「よい旅だった!」と思えれば幸せです。
愛 というやつは、本当に理解しがたく、定義付けできない。
嫌悪や憎しみの感情は、分析していけばその要因が比較的わかるものだが、「愛」というのは、深掘りしても、何ゆえに愛しているのか解らなかったりする。人間としての本能なのだろうか? 性質的には性欲に似ているため、一時は「愛は性欲の一つの形態」だと考えていたが、性対象ではない自身の子供や、遠く離れた土地で蹂躙されている国の人々にたいして感じる「愛」は、どう説明できるだろうか。
僕は、この「愛」というものを定義付けたりするような行為は無意味だと最近思っている。人は社会性を持つ生き物として、備わった根元に鎮座する性質だと解釈しよう。
愛を下手に、定義付けたりすると、混乱が起きる。これに関しては、真理とかを求めず、自然体に委せたほうが・・・ 宗教やイズムで定義付けられた「愛」は、軋轢からの対立を生むし。