「…なるほど、それはとびっきりの素敵な案だね」
そう言って教室の机に頬杖をつきながら彼女はさらりと自慢の黒い長髪を揺らした。
窓から差し込んだ光が彼女の目元を覆い隠し、日光から逃れた口元が悪戯を思いついた子どものように純粋無垢な笑みを口元に浮かべているのが見えた。
頭を抱える。こういうときの彼女は全くと言っていいほど人の話を聞かない。
「はあ…。一応言っておくけど」
「はいはい、わかってるよー」
もちろん、と言いたげに彼女はこちらをあしらう。その仕草を見て嫌な予感がさらに膨らんだ。
「じゃあ、また明日!」
「また明日…」
がたっと机を押しのけ彼女が席を立つ。振り回されることが予想できてうなだれる僕に、彼女がばいばい、と手を振る。それに応えてばいばい、と手を振り返した。最後に、彼女ががたがた、とぼろぼろの扉を力いっぱい閉めようときゅっと眉根を寄せた顔が見えた。
…僕が覚えてるのは、そこまでだ。それから永遠に、彼女は手を振ることはなかったし、二度と扉を閉めることもなかった。…その翌日、彼女は動かないまま川から引き上げられて見つかったのだから。
例えば、おはよう、と言ってみる。その返事が返されない日々をここ数日か、ずっと送っている。
たぶん、一番最初に視界に見えたものはやや透けた手と足だった。
なんだこれ。体って透けるものだったか? 服も透けている。首を傾げる。わけがわからなかった。
とりあえず、と思って街をぶらぶらと歩いてみると、向かい側から歩いてきた人が、こちらに気づく気配もなく向かってきた。スマホをいじっている男性だ。
うわ、と声を上げかける、間もなく相手はこちらの体をすり抜けた。不安に思って自分の体をあちこち眺め回してみるも、やや透けていること以外には別段、違和感も何もなかった。これがあって、俺は自分を幽霊なんじゃないか、と仮定することにした。
次に、ショッピングモールのガラスの前に立ってみた。何の変哲もないガラスに、やや色の薄い自分が映っている。
どうやら生前の自分は大してファッションにこだわりがないようだった。ユニクロとかに売っていそうなパーカーに、シンプルなジーパン。やあ、と片手を上げると、ガラスの中の自分も片手を上げたのがわかった。
例えばこんにちは、と言ってみる。その返事が返されない日々をここ1週間か、ずっと送っている。
だいたいこの幽霊生活にも慣れてきて1週間目。物珍しいことは一通りやり尽くして、暇になったので近くのパン屋に入った。壁はすり抜けた。自動ドアなんてもの、こちらには反応しない。
お腹は減らないし、食べ物にもさわれない。店内を眺めたあと、誰かを待っているらしき主婦の目の前に座って、相手をしばらくじっと見つめた。こんにちは、と言ってみた。もちろん、相手は飲み物を飲んでいて、こちらには人目もくれなかった。なんとなく、不毛なことをしている気がした。
例えばこんばんは、と言ってみる。その返事が返されない日々をここ2週間か、ずっと送っている。
動物は、少しとはいえこちらがわかるらしい。猫を撫でたら気持ちよさげにしているし、近づいてみた犬には異様に吠えられたので諦めてその場を去ることにした。最近、気力が何もなくなってきた気がした。
とりあえず今日は商店街に立ってみよう、と決めてはや数時間。
ひゅ、と息を呑んだ。一瞬、存在しない心臓が止まったかと思った。ほんとに。道を慌ただしげに歩く人の中にやや透けた少年がいたのだ。仲間の幽霊を見るのは初めてかもしれない。
「待って!」
声をあげるなり、人群れに飛び込んで走り出す。こちらを認めた少年は疑問に首を傾げたまま、立ち止まった。
はあ、と走り、息が上がったまま話しかけた。
「君は幽霊?」
「はい」
なんですか、と言いたげに黒い瞳がこちらを見つめていた。
「俺以外の幽霊を見たのは初めてだ。君はどれくらい、幽霊をやっているんだ?」
さあ、と首をひねる。その横顔はやけに大人びて見えた。
「わかりませんが多分数年は」
「数年か…!」
絶句する。思ったより長い。
「なら聞きたいことがあるんだ、幽霊でもなんでも、実在しないものがいてもそれに意味はあるか?」
わかりませんが、と話し出す。ああ、と頷いた。
「幽霊でもなんでも、あなたはここにいて、僕と話しているのに何もないってことはないんじゃないでしょうか?」
ふ、と息が抜けた。これまで悩んでいた、全て一人芝居みたいな行動も、それだけでなにか存在意義みたいなものが、自分の軸が、見つかったような気がして。
ありがとう、と言った。いいえ、とすました少年がやや表情を緩めて返事を返してくれた。