つい昨日のことなのですが、小学校の頃によく遊んだ友人が、わたしと同じ歳ほどの姿で夢に出てきました。
遠くへ引っ越してしまったその友人とはもう連絡をしておらず、本来であればその人のことを友人だとわかるはずもないのですが、夢とは不思議なものですね。その人がその友人であると、何故か確信しているのです。
この夢を、もし夢だと認識出来ていたのなら。あなたではないあなただけれど、せっかく出てきてくれたのなら。
夢が醒める前にあなたを酒に誘って、今までのことをじっくり話してみたかったと、思うのです。
大人になるにつれて、それは当たり前のことになる。どんなにつらくても苦しくても、歯を食いしばって立ち上がる。涙のあとなんて知らないふりで、耐え凌ぎ頑張る姿が美しい。
ああ、美しいとも。ただ、後ろに置いてきた自分のことを、忘れないでほしいのだ。泣かないよ、と言えるまで涙を拭い、こころがこわれるまでがんばってきてしまった自分のことを、どうか、どうか、抱きしめてあげてほしいのだ。
頑張るあなたも、あなた。傷ついたあなたも、あなた。
受け入れたら泣いてしまうのなら、そのまま気の済むまで泣いてしまおう。あなたは、あなた。
大事な、あなた。
その一歩、あと一歩が踏み出せない。だって怖いのだ。何があるか分からない。何か起きないとも限らない。失敗をする可能性が確実にゼロではないことが、とてもとても怖いのだ。生きている以上仕方のないことだけれど、その失敗がもし取り返しのつかないことだったら?何もかもを失ってしまうおおごとだったら?
怖いのだ。こわいのだ。成功以外が、怖いのだ。成功以外ではだめなのだ。いや、厳密には『だめ』なのではない。命を落とすことはないとしても、生きてつらいことに直面し、面倒ごとになるのがいやなのだ。そう、嫌なのだ。単純に。
ことなかれと見守って面倒になることもままある。でも、でも、でも。
ああ、一番面倒なのは、怖がりの自分ではないか。
心身を大事にしてほしいのです。
もしかすると耳にタコができるほど聞いたかもしれませんが、それはあなたのことを本当に心配しているからです。
からだもこころも、大事なものです。大事にしないとどうなるかというと、頭がうまく回らなくなったり、文字がきちんと読み書きできなくなったり、人と話すのがおっくうになったりします。
そんなことを言ったって、大事にできないときもあります。頑張らないといけないときもあります。痛いのをがまんしないといけないときもあります。
そのときは、そのあとは、よく頑張ったと、もう大丈夫だと、大事にしてあげてほしいのです。
自分の大事なひとたちも、やさしく大事にするために。
君に何かをしてあげたくて、楽しく思ってもらいたくて、色々なことをしましたね。でもそれがただのエゴだと気づいたのは、だいぶ経ってからでした。
しすぎるのもよくないことだと学びました。何ごともほどよくといいますが、むずかしいものですね。
ほんとうに君のためにと思うのなら、何でもしてあげるのではなく、信じて見守る方がよかったのですね。
ああ、いえ。取り止めのない話です。