手を繋いで、君と見上げる月
「ごめんね、待った?」
「ううん、私も今来たところ」
駅前のモニュメントで森田くんと仕事終わりに待ち合わせて、2人並んで歩く。
大学2年生の時に社会学部のゼミで知り合った森田くんとは、就職1年目の今もカフェや夕食に出掛けて他愛のない話をする仲だ。
「昼間はまだ暑いけど、夕方は涼しくなったね」
「うん、ムシムシした感じがなくて気持ちいい」
秋の夜風が森田くんの前髪を柔らかく揺らしている。
交差点で青信号を待つ間、オフィス街のビル群を見上げると夕暮れにか細い月が浮かんでいた。
「三日月、綺麗だね」
「あ、ほんとだ」
私の言葉に月を見上げた森田くんは軽く微笑んで目を細めてる。その横顔を私はそっと盗み見る。
青信号に変わり、森田くんは私の歩幅に合わせてゆっくりと歩き始めた。
森田くんは率先してゼミのリーダー的な役割を担ってくれる、頼りになる人。そんな印象。
私はカフェでバイトするほど、カフェの雰囲気やコーヒーとカフェメニューが好き。
大学近くにできたばかりのカフェが気になっていた時、森田くんに空きコマにどう?と誘われて、カフェで一緒にお茶をした。
森田くんはその時もゼミの印象のまま明るくて良い人。楽しくお茶をした後、「時間のあるときに一緒にカフェ巡りができたら」と少し照れながら伝えてくれた。
だけどそのときの私は、中学時代の部活の元顧問とバイト先のカフェで再会して心惹かれていて、森田くんの誘いを断った。
それなのに…
店内で天井からのダウンライトに照らされながら、何にしようかなあとテーブルの向かい側でメニューを楽しそうに見ている森田くんをそっと見つめる。
私が森田くんの誘いを無碍に断った後。
「わかった。ごめんね、変なこと言って」
森田くんは優しく微笑んで、私とずっと友だちでいてくれている。
元顧問の早坂先生が来てくれるバイト先は大学が忙しくて夏に辞めてしまった。
あの頃の私はまるで夏に忘れ物をしてしまったよう。自分の気持ちがわからなくて踏ん切りがつかなかったとき、森田くんは私の気持ちに寄り添ってくれた。早坂先生に会いに行く決心をしているのに行けずにいた私に「着いて行こうか?」と私の背中を優しく押してくれた人。
隣を歩いて、一緒にご飯やお茶をして、近況を伝え合う時間。
幸せだなぁと思ってる。森田くんが楽しそうに笑っているのを見ること。私を見て笑ってくれること。
「米田さん、どうしたの?」
「ん?」
「手が止まってるよ」
パスタを食べる手を止めた森田くんが少し申し訳なさそうな顔をした。
「仕事、忙しいのに無理してる?米田さんの所属してるNPO、忙しいって言ってたよね」
「あ、ごめん。確かに忙しいけど、充実してるって言う方が正しいかもしれない。今、子どもたちのために新しいワークショップを計画してて、忙しいけど、楽しいの」
「そっか、良かった」
「ん?」
「友だちが良い顔してるって、嬉しいじゃん」
「あ、あはは。そう言うものか」
「そう言うもんだよ」
パスタをフォークに起用に巻きつけて森田くんはパクパクと食べるのを再開する。
美味しそうに大きな口を開けて食べる森田くんの姿を見るのがいつも密かな楽しみだったはずなのに。
「友だち」
森田くんと私は友だちなのに、森田くんから『友だち』と言われて、細い針がチクッと刺さったように痛む。
その後の食事は、あんまり味がしなかった。
森田くんとの食事を終えて、今夜はあんまり笑顔でいられないかも、と思った私は、「やっぱり疲れてるのかも。ごめんね」と早々に別れを告げた。
森田くんは地下鉄のホーム、私は在来線ホームへ。
電車に乗っても、森田くんの心配そうな顔が忘れられない。
車窓の夜空の三日月は高く登り輝いてる。
学生服に大きなバッグパックを背負っているのは、学習塾帰りの中学生だろうか。
鈴ちゃんーーー私の中学校からの友人で、新卒1年目で母校の中学校の教師をしているーーーに不意に会いたくなった。
話を聞いてもらいたい。
森田くんのこと、早坂先生のこと。
鈴ちゃんにLINEを送ると、すぐに既読になった。
『週末、ご飯食べに行かない?』『OK!どこ行く?』『まだ決めてなくて』『探しておくね!』
鈴ちゃんからの返信は全部ビックリマーク付き。私はちょっとだけ笑ってスタンプを送った後スマホを閉じて、目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは、森田くんの顔だった。
ずっと、早坂先生の顔が浮かんでたはずなのに、いつの間にか森田くんの顔が思い浮かぶようになっていた。
森田くんに背中を押されて、私は「好きです」と早坂先生に伝えることができた。
「元教え子だから、今は私とは考えられない」と断られたけれど、私の気持ちは受け止めてくれて、「もっと米田が経験を積んでそのときに同じ気持ちだったら、元教え子の枠を取り払って向き合うよ」と約束してくれた。
経験を積んだら…って、大学を卒業して、社会人として経験を積むこと、早坂先生と同じ立場に立つことだと思ってる。
いざ、自分がそうなったら、早坂先生よりも森田くんのことが思い浮かぶようになっていた。
こんなのって、許されるのかな。
大学を卒業して、私は県庁所在地のある都市で一人暮らしを始めた。
森田くんはこの都市の出身で、美味しくて安いご飯屋さんない?って聞いたことから、一緒にご飯やカフェに出かけるようになった。
私は過去、カフェ巡りを無碍に断ったのに、森田くんは笑顔で一緒に出掛けてくれた。友だちだから、なのに、友だちって言われたことが辛い。
家に着いて部屋着に着替えたとき、LINEの着信音が鳴り、スマホを手に取る。
鈴ちゃんからだった。私のかつてのバイト先のカフェがスパイスカレーのお店を始めたからそこはどう?という提案。良いね!と鈴ちゃんにスタンプを送った。ちょっとだけ元気出たかも。鈴ちゃん早く会いたい。会って、このもやもやを聞いてもらいたい。
週末、鈴ちゃんとのランチは緑地公園に入ってすぐの所にできたこじんまりとしたスパイスカレー屋さん。
バイト先だった同じ緑地公園内にあるコンテナのカフェとオーナーが同じ系列店。
入店してすぐコーヒーの淹れ方を教わったオーナーに見つかって、「今日はゆっくりしていってね」とよく冷えたレモン水を置いて行ってくれた。
「鈴ちゃん…森田くんって覚えてる?大学生の頃、駅前でバッタリ会ったことあるんだけど」
「相合傘してた人だよね?ちょうど私の話をしてたからって、米ちゃん、紹介してくれた」
「そう、その人」
「爽やかなイケメンだったね。その人と何かあった?」
鈴ちゃんは静かな瞳で尋ねた。
好奇心はなく、心配そうな顔をしてる。
鈴ちゃんのこんな表情を、私は過去に見たことがある。
中学校の地区の長距離継走大会の後、順位を落として落ち込んでる私に、霧雨の競技場で寄り添ってくれた時と同じ表情…。
元顧問の早坂先生に練習不足だって言われて、私はさらに落ち込でしまって。
でも、捻挫をしてたせいでちゃんと練習できなかったことを知ったら、早坂先生はすごく謝ってくれた。
あのときは、私を子供扱いしなかったことにただ驚いたけど、大学生になって、まさか早坂先生を好きになるとは思わなかった…。
「森田くんの話の前にひとつ話しても良い?」
「うん、なんでも言ってみて」
微笑んでくれる鈴ちゃんに安心して、そっと紡いだ。
「私、早坂先生に恋してたの」
「えっ、」
ビックリしてる鈴ちゃんに声なく微笑む。
「でね、先生に好きって伝えたら、元生徒とどうこうなる気は今はないよって」
鈴ちゃんは真面目な表情をして、「うん…早坂先生なら言いそうかも」と小さく呟いた。
「早坂先生ね、私、教育実習のときに指導してもらったんだけど、すごく生徒想いだなって思ったの。
先生、男女問わず人気者で、親身になってアドバイスしてることも多かったけど、女子生徒には一線引いてた。相手が中学生だから当然だけど、その辺りは特に注意してたみたい」
「そっか」
「厳しいですね、って他の先生が言ったとき、『彼らにはまだ人生経験が浅いですから。将来、もっとキラキラした未来が訪れるんですから、視野を広げてもらいたいんですよね』だって。ちょっとカッコいいと思っちゃった」
鈴ちゃんの笑顔につられて私も笑顔になる。
私がコンテナのカフェで告白した瞬間、元教え子としてきっと大切に思われてた…。
「でも…早坂先生は『今は』って言ったんだよね。だから米ちゃんは心が揺れてる…?」
「今は早坂先生より森田くんに惹かれてる。心変わりした。でも、私、早坂先生と約束したことがあって」
「約束?」
「『元教え子だから、今は私とは考えられない」と断られたけれど、私の気持ちは受け止めてくれて、「もっと米田が経験を積んでそのときに同じ気持ちだったら、元教え子の枠を取り払って向き合うよ』っていう約束」
カレーの後で頼んだスペシャリティコーヒーの香りが、熱さが、早坂先生を思い出す。
先生の誠実な優しさと笑顔を。
「早坂先生は…今の鈴ちゃんを、きっと、成長だと捉えるんじゃないかな」
「え?」
「考えが変わったり、心変わりは誰にだってあるよ。それだけ経験を積んだってことだと思う。米ちゃんは、早坂先生を諦めたわけじゃないでしょ?」
鈴ちゃんは、私に視線を合わせて微笑んでいる。
うん、私は早坂先生のことを忘れようとか、諦めようとしたわけじゃない。
「うん、違うよ。森田くんに惹かれたの」
ちょっと恥ずかしいけど、言い切って笑うと、鈴ちゃんもホッとしたように笑った。
互いにコーヒーをひとくち飲む。
美味しくて、キッチンを見ると、オーナーと目が合う。サムズアップすると、オーナーは両手でサムズアップした。
私たちのやり取りをクスクス笑ってる鈴ちゃんに、笑いかける。
「鈴ちゃん、先生みたいだった」
「へっ?」
「それだけ経験を積んだから、って言ってくれたとき。学校の先生ってすごいね。私、心、動かされたもん」
「やだ、米ちゃん、やめてよ!」
顔を赤くして照れてる鈴ちゃんに声をたてて笑う。
友だちって良いな。
森田くんが私のこと、友だちって思ってくれてるなら、それでも良いのかもしれない。
少なからず、他の人よりは大切に思っているだろうし。
カレー屋さんを出て、せっかくだからと緑地公園を散歩する。
私は中学校卒業後、すっかり走らなくなってしまったけれど、鈴ちゃんは高校と大学では陸上部に入部して、私はもっぱら鈴ちゃんの応援団だ。
この緑地公園は、私と鈴ちゃんの中学時代の選抜長距離部の青春が詰まってる。
今も木々の緑は生い茂り、もっと秋が深まればもみじの紅葉がはじまる。
池のほとりをまわって、コンテナのカフェの屋根の下、人影がいるのがわかった。それが早坂先生なことも。
鼓動が強くうるさい。鈴ちゃんが人影に気づいて、あっ、と声を出した。
まだ早坂先生に聴こえる距離じゃないのに、鈴ちゃんが「どうする?」と小声で尋ねた。
どうしたら良いんだろう。私たちに気づかないでタオルで汗を拭っている早坂先生の背中を見つめて、私は決めた。
「会ってくる。だって、私は成長したってことで良いんだよね?」
鈴ちゃんが笑う。
「うん!いってらっしゃい!」
両手で背中を押されて、私は早坂先生へと真っ直ぐに向かう。
木々が風に優しく揺れる。
コーヒーを受け取って振り返った早坂先生が私を見つけた。
「おっ、米田?久しぶりだな。コーヒー飲みに来たのか?何飲む?」
私の分を注文してくれようとする先生に此処にいる理由を話す。
「鈴ちゃんと、公園の入口のカレー屋さんでランチしたんです。そこでコーヒーも飲んでて。だから大丈夫です」
「へえ。あそこ、俺も気になってるんだよな。鈴木とはもう別れたのか?」
「いえ。…私、早坂先生に話があって。鈴ちゃんには待ってもらってます」
鈴ちゃんは池のほとりを散策してるから、と話が終わるのを待ってくれている。
あのバイトの頃のように早坂先生はコーヒーを飲み、私は先生の正面に座る。
私は一度深呼吸をした。そんな私を先生は静かに見つめている。
「早坂先生。私、あの夏の忘れ物を大切に持っていたんです。先生への気持ち」
「そうか」
穏やかに頷かれて、「でも、」と私は緊張に声が掠れた。
先生は一度席を立ち、カウンターにいる店員さんからお冷をもらってくれた。私は会釈して一口飲んで先生を見つめる。
「だけど、大学で同じゼミの人と知り合って、今、その人のことをよく考えるんです」
「そうか。…米田、俺、あの夏に言ったよな?永遠は難しいって。人は成長する。だから永遠は難しいんだ」
目元が熱くなる。早坂先生は低い声で穏やかに笑って、私の頭に自分のタオルを被せた。
やっぱり柔軟剤の優しい香りと肌触りがする。
「全く、2枚も俺のタオルを持って行くのは米田だけだ」
「すみません、前のタオルも返してないのに」
グズっと鼻を鳴らすと「いらんいらん」と先生は笑った。
「じゃ、鈴木が待ってるだろ?よろしく言っておいて」
「はい」
「元気で。頑張れよ」
先生は陽が傾いた緑地公園を走って行った。
鈴ちゃんに連絡を取る。
迎えに来てくれた鈴ちゃんに報告する。やっぱり早坂先生は鈴ちゃんの言う通り良い先生だったって。
夜になって、新しく森田くんからLINEが送られて来ているのに気づく。
ビル群に浮かぶ煌々と白く光る満月の写真が添付されている。
「仕事落ち着いてきた?大丈夫?」
って聞いてくれるのは、先日、夕食を一緒に食べた時に「疲れてるみたい」って、私が早々に解散を切り出してしまったから。
「友だち」と言われて勝手に落ち込んで、森田くんに心配をかけてる。
声が聴きたい。電話をかけると、すぐに電話に出てくれた。
「森田くん、大丈夫、元気だよ。この間はごめんね」
「そっか。良かった。実はちょっと心配してた。俺、変なこと言ったかもしれないと思って。あのとき、途中から米田さんの様子がちょっと違ったから」
「……」
森田くん、私の様子に気がついてたんだ。驚きと恥ずかしさに言葉に詰まると、森田くんは電話の向こう側で咳払いをした。
「あのさ、少しだけで良いから、米田さん、外に出れるかな」
「えっ?」
「今、外にいるけど、そっち、向かうから。30分くらいで米田さんとこの最寄り駅へ行けそうなんだ」
「あ、うん、大丈夫だよ」
「駅へ着いたら連絡するから」
「うん」
唐突な誘いに思わずオッケーを出してしまった。
髪とメイクを手直しする。
友だちとして心配してくれてるのでも良い。私は森田くんのその優しさも好きだから。
「ごめん、急に呼び出しなんかして」
「ううん、大丈夫」
駅前のペディストリアンデッキを並んで歩く。
夜空に浮かぶ満月は煌々と高く光る。
「月、綺麗だね。ごめんね、森田くん。心配かけちゃって」
「そんなの、友だちだから、当たり前だよ」
優しい微笑み。ちょっと…だいぶかもしれない。胸は痛むけど、でも、大丈夫にしなくちゃ。
「私、早坂先生に会ったの」
息を飲む森田くん。
背中を押してくれた森田くんには、早坂先生の忘れ物が恋心だったこと、大切に持っていることはお話済みだった。
「…そっか。経験を積んで会いに来たら、米田さんと向き合うって言ってくれたんだよね。良い先生だよね」
森田くんは立ち上がって、月を見上げている。
なんとなく森田くんの声が震えている気がして、私は彼のシャツの端をそっと掴む。
ビクッと身体を揺らして、森田くんが私を見下ろした。私は森田くんを見上げて微笑んだ。
「私、早坂先生に、夏の忘れ物をもう持ち歩かないって言ってきた」
「えっ、…っと、マジで…?」
「うん。早坂先生は言ってくれた。『永遠は難しいって言ったよな。人は成長するから』って」
「そ…っか、ビックリ…。けど、会ったことない人だけど、同じ男として憧れるかも。早坂先生のこと」
驚きから柔らかな表情に変化した森田くんに、うん、と微笑む。私も早坂先生に出逢えて良かったと思ってる。
「んじゃ、もう米田さんの憂いは消えたんだね」
「うん、もうバッチリ…かなぁ?」
「なんか含みがある?」
「内緒」
人差し指を口元に当てて笑う。
「米田さん」
ふと真面目な声音で呼ばれた気がして森田くんを見上げる。真面目な表情を柔らかく崩して優しい瞳で見つめられていて、小さく息を飲んだ。
「よく頑張ったね。うん、よく頑張った」
ぽん、と大きな手のひらが頭に乗った。
子犬の頭を撫でるかのように優しくナデナデされる。
心が柔く解けていく。そんなに優しくされると泣いちゃいそうだよ。
「森田くんが応援してくれてたの、知ってたから」
「うん」
「だから、頑張れた」
「そっか」
「うん」
頭皮を撫でていた優しい温もりがそっと離れていく。私がその指先を視線で追うと、森田くんが手のひらで自分の顔を覆った。
「米田さん、一個だけ俺の話も聞いて」
少しだけ切羽詰まった声に、「何でも言って」と答える。
森田くんのために私ができること、何でもしてあげたいって思った。
こんなことを思うのは、初めてだと思う。
「俺、米田さんのこと、ずっと友だちだって自分に言い聞かせてた。米田さんは友だちだって、大学の頃からずっと」
どういう意味に捉えて良いかわからなくて。指先が冷えていく。
「でも、もう隠せなくなった。俺、米田さんのことが好きです」
顔を覆った手を外した森田くんは、顔を赤くしている。私に見つめられて、「あっ、でも、」と視線をそらせた。
「米田さんが俺のこと、好きにならなくても別に良いんだ。今まで通り、友だちとしていてくれれば。ってか、それでお願いします。こんな意識させるようなこと言ってなんだけど。あれ、ごめん、ほんと、」
年齢の割に落ち着いている森田くんとは思えないほどテンパっていて、私はちょっとだけ笑う。
正直に胸はドキドキ鼓動が速いんだけど、森田くんが可愛い。そしてすごくすごく嬉しい。
「森田くん」
「はい、」
「もう遅いよ。私、森田くんのこと、好きになっちゃったから」
あ、小さな声になった。でも、森田くんにはちゃんと聴こえてて。
「マジか。めっちゃ嬉しい」
私の手首を掴んだ森田くんに、胸に引き寄せられる。
嬉しい、と力強く抱きしめられて、森田くんの心臓の鼓動の速さを知る。
「ごめん、勝手に」
「ううん、大丈夫」
抱きしめる腕を解いた後、森田くんは私と手を繋いだ。
「俺、今夜の満月は忘れられないと思う」
大切そうに呟かれたその言葉も、私は忘れられないと思う。
「私も」
ふたりで見上げる満月は、夜空に煌々と煌めいている。
手を繋いで、君と見上げる月
君を抱きしめても、どこか君と寄り添えていない気がして、もっと強く抱きしめる。
「痛いよ」と言う君の声が、以前はどこか嬉しそうに聞こえていたのに、
今は、「痛い」とだけ聞こえてくる。
今、何を思っているの?
僕のこと、どう思っているの?
まだ、僕のことが好き?
他に好きなヤツがいるの?
決定的なことは何一つ聞けなくて、
君の身体の抱きしめる力を緩める。
そうすれば、「痛いから離して」と言う口実を潰せるから。
ねえ、
僕は心のざわめきがずっと止まらないんだ。
本当は、君だって、ざわめきが止まらないだろう?
君は、僕の親友に、ときめいているんだろう?
僕が君にキスを試してみたら、
君は僕を拒否して、
君は楽になれるのかなあ。
最終的に、僕と君は、心のざわめきから解放されるのかなあ。
でも、
僕からはキスしないし、
僕をどう思っているのかも、
まだ僕のことを好きなのかも、
僕の親友を好きになってしまったのかも、
何もかも聞かないよ。
僕と同じように、
心のざわめきを抱えていけばいいさ。
いつかざわめきを抱えられなくなって、
僕が君を許すのが先か、
君の罪悪感が破裂するその日まで。
心のざわめき
嗚呼、どうして好きになっちゃったんだろう。
初恋の人を忘れられないって知っているから、絶対に好きになりたくなかったのに。
好きになりたくないなんて意固地になっているってことは、裏を返せば異性として意識しているのに他ならないのにね。
不意に目が合った。
私がずっと見つめてしまったせいかもしれないけれど。
何かに気づいたフリをして、そっと視線を逸らす。
嗚呼、私は貴方に恋心を気づかれたくないの。
これまで貴方を好きになった多くの女性同様、「忘れられない人がいる」って決定的なことを言われたくない。
嗚呼、私は貴方を好きじゃないフリをするから。
どうか、友だちのままでいさせて。
嗚呼
授業後、教室の前の方の席で女子がなんだか盛り上がっていた。
陰キャの俺には関係ないし、と帰り支度をしていると、女子の輪に男子も加わり始め、集団が大きくなりつつあった。
帰り支度を終えて後ろのドアをガラッと開けると、「ちょっと待って」と声がかかる。
「俺?」
「そう。この曲、知ってる?」
ラララ〜と口ずさみ始めたその曲に、聴き覚えがある。
でも、ラララと歌うその部分の前後に覚えはなく。
「聴き覚えはあるんだけど…」
「あああ、皆んなそうなんだよね…」
いつの間にかクラス全員が曲の一部を口ずさまれて、曲名を思い出せないドツボにハマっている状況。
「あ、曲を調べるアプリってなかったっけ?」
「わっ、頭良!」
アプリを入れて口ずさんでみる女子。
「ヒットしないんだけど」
「えー?」
他の奴らもアプリを使ってみるけど、わからず…
真相は闇の中。
だけどクラスは妙な一体感に包まれて、カラオケへ行こうと盛り上がっていた。
「カラオケ行く人挙手ー!」
カラオケへ行くと盛り上がっている輪から外れていた男子もパラパラと挙手をする。
普段は参加しない奴らのことを言い出しっぺグループが笑顔で歓迎する。
楽しそうだなと羨ましく思いつつも、ぼっちで陰気キャの俺は手を挙げる勇気はない。
そっとその場から離れると、「一緒にいかない?」と声をかけられた。
俺に曲名を知っているか質問して、ラララと口ずさんだ女子。
「今日、ちょっと、用事があって…」
「そっか。また今度ね」
バイバイ、と手を振って、グループの輪に戻って行く。
俺は盛り上がる教室を後にした。
さっきの女の子が口ずさんだラララが脳内で繰り返し再生する。
綺麗な声だったなあ。
あの子の歌声は聴いてみたかったかも。
それにしても、あの曲名はなんだ?
クラスの皆んなは忘れているだろうラララを俺は口ずさんだ。
ラララ
金木犀の花咲く頃、散歩をするのが好き。
甘い香りに誘われて、少し遠くまで歩いてみる。
それは風が運ぶ高揚感。
風が運ぶもの