ふらりと立ち寄った、とある一件の喫茶店。
窓辺の席に座り、レースカーテンから漏れる暖かく柔らかい光に照らされる彼女は、まるで天使だった。
日中は喫茶店、夜はジャズバーとなるこの店にはマドンナがいる。
日が傾き、店がバーに切り替わると、マドンナの父親が気ままにアコースティックギターを鳴らす。それに合わせてマドンナは軽快に歌い出す。誰もがその姿に夢中なり、心を惹かれ、そして儚く散っていった。
店の近所の男や連れ合いの友人、果てはマドンナの噂を聞きつけて、遠方よりはるばるやってきた男など、様々な男がマドンナへとアタックしたが、彼女は決まってこういうのだ。
「ごめんなさい、好みじゃないの」
ストレートな言葉に肩を落としすごすごと去る男たちを横目に、私は到底勇気が出なくて。
しかしせめてマドンナの歌が聴きたいと思い、ひたすら店に通い続けていた。
「ねえ」
ある時、何曲か歌い終えたマドンナが他の男との会話を適当に切り上げ、私に声をかけてくれた。
「いつも来てくれてありがとう」
「あ、ああ」
「どうしていつも来てくれるの?」
零れ落ちそうな程丸くて大きな瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。まるで宝石のようだと思った。
「君に、会いたいから」
「これまで一言も話した事なかったのに?」
「ああいや、君の歌のファンでもあって…。声も、歌う姿も…、その、とても素敵だ」
顔が熱くなり、気恥しさから俯いてしまう。だがそんな私の様子にはお構い無しに、彼女は私の手を取った。
「本当に…?嬉しい!」
目を細めてにっこりと笑う彼女をちら、と見て、やはり私は照れ隠しに俯き今度は視線を泳がせた。
「あなた、ギターは弾ける?ピアノでもいいわ」
「ピアノなら少し」
いよいよ黒い宝石が零れるのでは無いかと思うくらい、彼女は目をまん丸にして、私の手を引いた。
「一緒に演奏しましょ!」
まさかこの一言からこの先何十年と彼女と共に生きていくことになろうとは。
久しぶりの鍵盤に戸惑いを隠しきれないこの時の私は、きっと微塵にも思わなかっただろう。
『この場所で』2024/02/12
しばしば「お前には人の心が無いのか」と言われる。私は至って効率的かつ合理的な提案をしているつもりなのだけど、その度に「それは無情すぎる」と言われ、その後から相手にされなくなる。
そしていつも考える。「一体何が悪かったのだろうか」と。皆目見当もつかないのだ。
情のある提案とは、一体なんなのだろうか。
しばしば「ちゃんと話を聞いているのか」と叱られる事がある。私はちゃんと聞いていたので、相手が喋っていた事をそのまま復唱するのだけど、そうすると何故か気に入らなさそうな、苛ついたような態度を取られる。
そしていつも考える。「一体何が悪かったのだろうか」と。皆目見当もつかないのだ。
「聞いていなかった」と、嘘をついたら良かったのだろうか。
何故いつも、私を責め立てるのだろうか。
『誰もがみんな』2024/02/10
私は毎年、結婚記念日に妻に花束を贈る。
まだお互い若かった頃。それこそ付き合い始めた当初に「橙色が好きなの」と言った妻の為に、いつも橙色のブーケを用意している。
「旦那さん。奥さんへ贈るなら赤やピンクは如何ですか?花言葉もそちらの方が素敵ですよ」
そう提案する店員に悪気はないのだろう。
花言葉は確かにロマンチックだし、赤やピンクには情熱的な花言葉が付けられている。
気持ちを込めて贈るなら、それもまた1つの選択肢なのかもしれない。
だが私は、それらに縛られる必要はないと思っている。
『あなたが私の為に選んでくれたものなら、何だって嬉しいのよ』
ある時妻が言った一言。
私が選んだ花をブーケにして贈る事に意味があり、きっと妻はそれを喜んでくれているのだから。
『花束』2024/02/09
「あなたの笑顔が好き」
そう伝えるとあの人は照れたのか頭をかいて、でも嬉しそうに顔をくしゃっとして笑ってくれる。
「ありがとう」
その一言で、私も笑顔になれる。
明日もまた、会えますように。
『スマイル』2024/02/08
私には夫とは別に、好きな人がいる。
私よりも25歳年上のあの人は、強くて、優しくて、たまに厳しい事もある。
怒った顔も、困った顔も、物思いにふける顔も好きだけど、笑顔がとっても素敵で大好き。
でも本当は誰よりも繊細で、脆くて。
他人に優しいのは、自分が傷つきたくないからで。
昔のトラウマから、他人を信頼したいのにできない。
その事を知った時、支えなければと思った。
ある時、私の事を信じていると言ってくれた。
私はずっとこの人のそばに居たいと思った。
あなたを信じる私を、これからも信じて欲しいと思った。
でもきっとこれ以上の気持ちは、夫への裏切りになる。
私は、どうしたらいいんだろう。
『どこにも書けないこと』2024/02/07