3つの拙作読んでくださった方、ありがとうございました。
今後は違うアプリで長文を書きたいと思っています(一気にではないですが)ちゃんとしたのを書きたくて、そこなら文章も縦で読めるし読みやすいと思うので、そこで読んで貰えたら嬉しいです(できた際はまたここに書きます)
その時また読んでもらえると励みになります。下手の横好きですが、よろしくお願い致します。
お題:20歳
創作
【宣戦】
成人式は蹴飛ばした。
初めから行く気などなく、眼中になかった。寒空の街中で着物やスーツをきた同い年の人間たちとすれ違う度に足取りは軽くなっていった。
あれにのこのことおめかしして参加する連中っていわゆる地元大好き人間や昔ちょっと(半端な)悪い系でした〜系が参加したがるよな。特に保守的な奴ほど。偏見だけどあながち間違ってもないだろう。
それでなくてもどうでもいいおっさん達に、昨日まで「あんた、誰?」(そもそも名前も覚えない)だらけの中高年のおっさん達に偉そうに祝われて嬉しい?普段からセクハラパワハラしてるおっさん共に。成人を二周三周と繰り返してるのに、中身は成人から程遠い仕上がりの連中に。
たまに成人式で暴れるIQマイナスなのかな?というような頭脳は三歳児、身体(だけ)は成人男性がテレビに流されると、かまってちゃん全開で見てるこちらが恥ずかしくなる。それするために気○團みたいな格好をして止めてもらうのを期待して行ってるわけじゃん。どんなプレイだよ。
あれを産んだ親、後悔しなよ。あんたらの子供はこの先もああやって他でも迷惑をかけるよ。つうか、今までも人に迷惑や嫌な思いをさせて生きて来てるよ。知らなかっただけで。
でももっと怖いのはそういうのに限って躊躇なく子供を作って親になってしまうこと。しかもポンポコ作る。確実に引き継がれていく、よからぬものが。アホや無能ほど無謀な子持ちの道を選ぶ。
こういうこと言ってる自分は確実に少数派でそれこそ中二病?と言われるのだろうな。その要素が全くないとは言い切れないかもしれない。嫌な奴という自覚は流石にある。
私は地元が嫌いだ。でも進学は地元から通える大学に親から限定された。未だ地元から抜け出せてない。下の弟は来年大学受験だがそんな縛りはない。遠方の大学を受験することもできるそうだ。呑気に「バンドサークルに入りたい」「ギター弾きたくて」とか言ってるのを見ていちいちちょっとイラッとする自分も嫌い。弟には許されて姉の私が許されない。小さい頃からいくらでもそんなことがあった。我慢が私のデフォルトになった。
これで「成人おめでとう」なんてどんな罰ゲームだろう。
親はおそらく就職も地元でさせようとしてくるだろうがそれだけは絶対阻止をする。一生出れなくなってっしまう。
地元を捨てる。それが今の私の願いであり、私しか知らない宣戦布告だ。それが実現できたとき一人で成人式をしてやろうかな。カラオケかどこかでしようか。想像すると我ながら怖いと思うが、どこか笑えてもくる。
私の苦労を知らない奴らに祝わせてたまるか。お前らに祝させてやるほど、私の人生は安くない。
とにかくバイトを増やしてお金を貯める(今も貯めてはいるけど就活するときに一気に減るだろう。遠方で就職したいから)資金がないと地元からは抜け出せない。今から増やそうとしているバイトの面接に向かう。足取りは軽い。
私の成人式はまだまだ先だ。待ってろ、私。人より遅いけど大丈夫だから。
お題l:幸せとは
【今、不幸ではないですか?】
(創作)
お金と顔ほど結論の出ない真理はないと思う。そして幸せとも切っても切れない永遠の問題。
富豪が「お金と幸せは関係ない」と言っても嫌味にしか聞こえないし、逆に貧乏人が「お金より大事なものがある」と言っても負け惜しみにしか聞こえないだろう。
顔もそう。
美人や美形が「大事なのは心の綺麗さだよ」なんて言えば憎悪が湧くし、不細工が「人間は顔じゃない」と言うと憐れまれる。
間違ったことは言ってない。でも「間違ってはない」ことは誰も救わない。
お金があっても幸せになれないことがある。顔が良かったことで辛い目に遭うこともあることを私たちは本当は心の奥底でうっすら知っているし、それに安堵している嫌な自分もちゃんと自覚している。
この二つは必ずしも幸せの“担保“になるとは限らない。借金になることすらある。
理不尽、不公平、不平等、宝の持ち腐れ、
意味わかんない。でもどこか清々する。その「幸せ」を使いこなせなかった人を。
生きているうちに幸せをゲットしにいくことが幸せなのか、生きているうちにもう幸せを知らずうちに手にしていることが幸せなのか、
それとも幸せはそもそも「不幸の予告準備」なのだろうか。
もしかしたら幸せはなんなのか、と考えられる時間があることが一番幸せなのかもしれない。
お題:新年(創作)
打倒新年
元旦早々に結婚報告をして来た知り合いのSNSをミュートにした。ブロックしてもよかったのだが、角が立っては面倒くさいため後々日が開いてからブロックしようと思う。いや、ミュートのままの方が良いか。悩む。
結婚自体は良かったねと思うが、わざわざ年が明けるのを見計らって、特別感を出そうとする演出に感情的だがイラっとしてしまった。私たちの結婚はサプライズの価値があると思っているのかな。それなら等しく皆そうである。それに今後元旦になるたびにこれを思い出すのは鬱陶しい。
年に最低一回は会うことがある子で言おうと思えばいつでも言えるだろうに、心は二枚目だったんだなと苦笑いしてしまう。
独身が少しずつ減って付き合いもかつてほどは圧倒的に減るのはもう慣れた。各々どうぞお幸せにである。あなたがたの幸せは喜ばしい。ええ、本音ですよ。
ただ、祝う方も時に疲れるのも事実。だっていつも祝う側だから。固定ポジション。入れ替えなし。祝った分お返しなんて来ない。私が祝われることはないし、まあ結婚するつもりもないから。
それは当然だから仕方ないけどこちらとて「おめでとう」と言われたくなる時が時たまある。
歳をとってから「おめでとう」と言われることって案外選択肢が限られていて、結婚かキャリアアップぐらいだが、私にはそのどちらも縁がない。
せいぜいあるとすれば「新年おめでとう」という年始のお決まりフレーズでこれはただの挨拶でしかない。
だから、自分自身で言っていく。
「ここまで生きてきてえらい。おめでとう」
「辛い時も1人で乗り越えてきたよね。おめでとう」
「いつも祝う側で頑張ってきたね。おめでとう、私」
新年、また私が始まる。自分の幸せを自分でミュートして蔑ろにしたりはしない。
私の新しい年はまだまだ続くのだ。
いや、続かせるのだ。