夜の海
すぶすぶと
ざわざわと
いつもより昏い顔を見せる波音に魅せられて吸い寄せられていく
月が映し出されたその水面はムーンロードというのだとか
それを歩けば月を辿れるのだろうか
では今宵新月の暗闇に道が断たれてしまうのだろうか
すぶすぶと
ざわざわと
耳も目も段々と海の音で満たされて吸い寄せられていく
潮の香りに包まれたか抓まれたか
誘われるがままに打ち寄せ打ち上げ
全てを流す打ち消す波になろう
自転車に乗って
101匹わんちゃんのロジャー氏は自転車に乗って愛犬ポンゴとお出かけをする。
それが幼心になんとも羨ましかった(彼にとっては悲劇でもあるのだが)。
自転車にはもう乗れるようになっていた。お下がりの錆びた自転車に乗って、もう使わなくなった三輪車に紐をつける。我ながらなんとも頭の悪いおままごとだけれど、そのときは本気でロジャー氏とポンゴになれるような気でいたのだった。
家の前には坂がある。
自転車に乗れるようになってから幾度となく駆け下りていた坂道だったから、その日も“愛犬”を引き連れて下り坂。三脚の犬はこちらが漕ぐ自転車を追い抜き坂を蛇行した。飼い主たるわたしはその危険な動きに気がついても紐を手放さなかった。紐は自転車に巻き付き、慌ててブレーキをかけた車輪と絡みあう。
映画の表現は正しい。紐がついた愛犬が何かに絡み始めると必然的に事故が起きる。
全身傷だらけでぼろぼろになって帰ってきた子供を見て母親は多分、まず怒ったと思う。
傷の原因を聞かれ素直に「犬と散歩をした」と答えた。母親は呆れた。
以後自転車に乗るときは“愛犬”を引き連れないこと、そもそも何かを持ったまま自転車に乗らないことを約束させられた。
その約束を守っている限り永遠にロジャー氏にはなれないだろう。
しかし時に憧れは憧れのままにしておいたほうが良い。
心の健康
心の奥が寝込んだときの特効薬は 「わたしはあの人の大切なひと」 ていう確かな証拠。
「あの人」が自分にとって大切な人なら、
「あの人」があなたなら、
そのときはきっともう寝込んでいる暇などないのです。
でも特効薬は未だ、見つからないのです。
君の奏でる音楽
僕の耳にだけ聞こえるもう二度と聞けない君の声。
普段は恥ずかしそうに小さくしか開かないその口は、君が歌うときだけふわと大きく広がって甘く透明な柔らかい音を出す。
覚えてる。
ちゃんと覚えてるよ。
君が出す声は笑う声でも怒る声でも話す声でも歌う声でも全部覚えてる。
だから、ああ、どうか、泣かないで。
確かに他の音はわからなくなったけれど、君の声だけは解るんだ。
今君が何を言っているかも、君がどんな声で泣いているかも、覚えてるから。
君の声だけは聞こえるから。
ああでもやっぱり願いが叶うなら、
僕の愛する君のあの声が、甘く清らかで美しいあの音が、もう一度僕の鼓膜を震わせてくれますように。
麦わら帽子
深呼吸を一つしてからチャイムを押すと、足音が数歩分、そしてからからと引き戸が音を立てる。
「…ああ、はなえちゃん。よく来たね。どうぞあがって」
記憶の中の姿より少し痩せた婦人は力のない瞳をそれでも柔らかく細めて中へと招き入れた。数年前に三和土からコンクリートに打ち替えた土間には、ひんやりとした空気が流れている。
「遠くまで来てもらって悪かったね…」
少し丸められた背中が婦人をより小さく見せた。かつて見上げた彼女の姿はしゃきしゃきと音が聞こえてきそうなほどだったのを思い出して喉が詰まる。
案内された部屋は荷物が乱雑に置かれていた。それでもその荷物がなければきちんと掃除され整えられているだろうことが窺える部屋だった。
「ごめんね散らかってて、ちょうど今、出してきたところだったのよ。さ、座って。お茶でも飲みましょうね」
引き寄せられた円座にそっと膝をおって座る。服。かばん。ノートやら本やら表紙のあるもの。細々とした小物たち。広げられた荷物はうっすらと見覚えがあった。母の持ち物だ。
「ものを持たない人だと思ってたけど、広げると案外あるものだよねえ」
透明のグラスに氷と緑茶を入れながら婦人は笑った。グラスは小さな水滴をまとってこちらの手の中へ渡ってくる。言いよどんだ言葉と一緒にお茶を一口流し入れた。
「…これ、どうするの」
問いかけに婦人は寂しそうに微笑んで「そうねえ」と答える。
「ずっと持っていようと、思ったんだけどね…」
グラスから水滴がじわじわと机に水の輪を作る。じーくじーくと蝉の鳴き声がひどく大きく聞こえる。
ぱん、と乾いた音を立てて婦人が両手を合わせた。
「そうだ。アルバム出てきたの、見る?」
いかにもアルバムといった厚いそれは、ノートやら本やらの一番下にあったらしい。ハリと艶のある布のような質感の表紙。恐る恐るそれをめくれば、顔をぐしゃぐしゃにした赤ちゃんが泣いていた。
女児誕生。命名「あい子」。
手書きのシンプルなキャプションがその赤子が母だと教えてくれる。それから数ページ泣いたり笑ったり指を吸ったりする新生児の写真が並び、おくるみが着物になったりだぶだぶの洋服になったりしながら成長していく。
あい子、6歳。入学式。緊張してる。
初めての遠足。おにぎりを落として涙。おともだちにりんごをもらってご満悦。
運動会。転ばなかったね。
はじめての制服。大きい。
芸術展佳作。おめでとう。美術の先生とハイチーズ。
あい子、合格おめでとう。喜びの舞。
卒業おめでとう。お祝いのケーキ。
……
段々一ページあたりの写真が少なくなり、いつしか風景写真が並ぶようになった。キャプションの字体が変わって記念旅行、とか天神谷、などと日時や地名だけが記される。
「…良いなあ、結構旅行行ってたんだね」
「出かけるの好きだったからね」
「ふうん…」
滝の写真をめくると再び赤ちゃんが泣いていた。ちゃんと貼られていなかったようで手に取れる。
「あれ、これ抜けちゃったんじゃない…」
何気なく裏返せばそこには小さな文字で
命名「はなえ」。
「…わたし?」
慌ててページをめくる。
眠る赤子の顔。木製のベビーベッドに吊るされた布のおもちゃに手を伸ばす赤子。
庭に咲くひまわり。ビニールプールの中に仁王立ちする女児。スイカを頬張る女児。
頭に麦わらをかぶり手にトンボを留めて満足そうに微笑む女児。
麦わらを被った女児を抱いて同じ笑顔で微笑むワンピースの女性。
はなえ、3歳。夏。暑い夏。スイカおいしいね。
「写真、撮ってたのねえ…」
懐かしそうに婦人が写真に触れる。
ふふ、と寂しそうに笑う。
「はなえちゃん、大きくなったよー……なんてね」
じーくじーくと蝉が鳴く。
「…けい子さん、あの…」
「うん、はなえちゃんが持っていてくれたら嬉しい」
「……ありがとう…」
からんと溶けた氷がグラスの中で音を立てた。
水滴を手に握って緑茶を喉に流し込む。
窓の外にひまわりが明るく見えた。夏。暑い夏。
アルバムの中で歳を取らない母娘が少し色褪せた紙の中で手を振っている。