命が燃え尽きるまで
「ステージ4です。」静かに医者に、そう告げられた。子供が中々授からなかった私達夫婦に、幸せを運んでくれた天使を抱きながら、ただ呆然とその言葉を聞いていた。
沈黙の臓器と世間では言われている、膵臓癌だった。
言葉も出ない私の隣で、夫がすすり泣いていた。
癌に効くと人づてに聞くと、何でも試した。ナチュラルキラー細胞を増やそう!と、家ではコメディ映画やお笑いを沢山観た。
まだ首も座らない私の天使と、ベッドに寄り添っては何枚も写真を撮った。
仕事の残業も切り上げて、私との時間を大切にしてくれる夫に日々救われた。
命が燃え尽きるまで、一緒にいたい…そう願った。
女優の樹木希林さんが、癌を患っていると知った。病があるから、今ここに私がいる。死を覚悟した強い精神に感銘を受けた。
どこまでも前を向いて生きよう…そう思えた。
私の命が尽きるまで…愛する人に見守られながら…。
夜明け前
今夜は寝付けない。アルコールも口にしたけれど…。
radikoで野村訓市さんの低音ボイスも眠りを誘わない。
こんな日は誰でもいいから、話を聞いてほしくなる。
あんなに仲が良かった女友達とも、最近距離をおいた。
自分の時間が増えた気がする。
でも…こんな夜は誰かと繋がっていたい。
「大好きな食器で食べる幸せ」そんな見出しの彼女のブログを覗いて、なんて趣味の悪い食器なんだろう…と思ってしまう自分が嫌いだ。
そう言えば、脳科学の先生がそれをシャーデンフロイデと呼んでいた。
どうしようもない孤独感の中で、それでも生きていけると強く思った
そんな夜明け前。
本気の恋
同級生のえみが、映画館で彼とキスをしたと告白した。
私も恋がしたいと、そしてキスはどんなものなのだろう…と想像した。
「全身に電気が走った感じ!」とえみは言った。
17歳の夏だった。私は一人行くあてもない旅に出たくなった。
町田で乗り換えて片瀬江ノ島まで電車に揺られた。
太陽にキラキラと輝く波を見ていた。
何時間経ったのだろう。人気も疎らになった海岸で、その人は優しく声をかけてきた。
「海を見てたの?東京の人かな。」
私は頷いた。「そう。僕は国立から来たんだよ。」
少し話してみると、国立の大学に通う私より4つ年上のお兄さんだった。
「帰り道だから、送ってあげるよ。」
危険な香りは、一切しないそのお兄さんに、自宅まで送ってもらった。
車の中で、お互いのことを沢山話した。都立でも校則の厳しい進学校を選んで私が後悔していることや、名前は聡さんで、バイクレーサーの平忠彦さんに憧れていること、勉強が忙しくて彼女とお別れしたこと。私が家族と上手くいっていないこと。映画や音楽の話し。
初めて会った人なのに、心を許して何でも話せた。
そして聡さんは、とても大人だった。
私は少し背伸びをして、聡さんと恋に落ちた。
ユーミンのこの歌が好きと言えば、歌に出てくる山手のドルフィンにも連れていってくれた。
就職活動が忙しくなった頃、私も受験ですれ違う日々が続いた。
大手の銀行に就職が決まった聡さんを、心からお祝い出来ない自分がいた。
そう、私は子供だった。何であんなに憧れていたレーサーの道に進まないの?と本気で思った。
何度も家の電話に連絡があったけれど、私は居留守を使った。
優しい聡さんは、今はどうしているだろう。
本気の恋を思い出しては、あの時私が大人だったらどうなっていたのだろう…と。
そんな話を娘にしたら、「お母さん、何でその人と結婚しなかったの?」と真剣に問いかける娘に「そしたら、真奈美と修一は生まれてなかったじゃない。」と言って、二人で笑った。
カレンダー
東京に就職で、出て行った一人娘の春奈。
久しぶりに電話がきたと思ったら、「お母さん、何も聞かないでね…私今お腹に赤ちゃんがいて妊娠5ヶ月に入ったところ。びっくりさせてごめんね。
一人で産むって決めたの。お母さんには迷惑かけないから。」
娘の声は、どこか不安でそれでいて嬉しそうだった。
あの子が悩んで決めたこと。
私もそっと見守ろうとおもった。
カレンダーを見たら5月3日だった。10月のカレンダーに、春奈、予定日と書いた。
明日から、近所の神社にお参りにいこう。
新しい命と娘のために。
喪失感
「君はぼくが今目の前からいなくなっても、悲しくないの?」
そんなことを口にされても、私は涙すら浮かべられない。
いつも私の感情は、少しズレているから…。
恋人に別れ話をもちかけられても、泣いてすがることすら出来ない。
涙は決まって、一人きりの暗闇の中でしか流せない。
「ひとみ、お父さんはお前のことをずっと忘れないから。元気でお母さんとおばあちゃんと仲良くやるんだよ。」
お父さんの肩車が大好きだった。
でも…あの夜も私は泣き顔を父に見せることは出来なかった。
悲しいのに。淋しいのに。
電気の消えた真っ暗な部屋の片隅で膝を抱えて、一人泣いた。
私の前から、大切な人が消えてなくなるとき。
喪失感だけが残った。
感情が溢れてくれたらいいのに…。
とてつもない喪失感と引き換えに、自分を呪った10代と20代。
今なら、あの時の私に言える。それでも大丈夫だよ、何も悪くないよ、と。
30代になった私は、自分で自分を慰める術を手に入れた。
明けない夜がないように。
独りの暗闇から、静かに抜け出した35歳の春。