夜明け前
眠れない時はお茶を淹れてゆっくりと過ごすに限る。
今日はミルクティーにしようか。
そういえばお昼にドーナツを差し入れられたのだ。お茶と一緒にいただくとしよう。
最近は持病の喘息が出るので大抵遅くまで起きてしまうのだが、こうして気持ちを切り替えて、お茶を楽しむ時間だと思い込む事で、病も少し落ち着く様な気がする。
ミルクティーのいい香りが立ち込める中、ドーナツをぼんやりと眺めながらふと思った。
自分は集団行動においてドーナツの穴か生地かどちらなのだろう。
ドーナツの穴はドーナツというものにおいて唯一生地の無い部分。当然だが味は無い。しかし、無ければドーナツとは言えない。そんな役割がある。
ドーナツの生地は空気と油と味の化学反応でしっかりと結合され、綺麗に焼き上がっている。バランスがとれて生み出される味は格別だ。
穴はどう頑張っても穴だ。
味がどうと理解をしていても周りと分かち合えないのだ。そうゆう性質なのだ。
しかしながら、生地も生地だ。
変わり映えの無い味である。
普段、仕事をしていると、やけに元気にお喋りをしながら結託をし華やかに仕事をこなす婦人達を見ていると、彼女達はドーナツで言うところの生地に思う。
そして、共に働く私は昔からどこに居ても、誰と居ても、集団が苦手である為に気がつけば1人で混じり気無く作業をする事が多かった。
私も旨いドーナツ生地側の人間になろうと、過去に何度も試みたが、周りと常にくっついて協力をしてと言うのがどうしても苦痛で仕方がなかった。
なので私はドーナツで言うところの穴なのだ。
かろうじてドーナツに関わり、やる事は果たしている。
人の元ある性質は変えられない。
しかしながら、生地も穴も、どちらも存在するからドーナツが成り立つ。どちらも大切なのだ。
・・そんな事を考えつつ、ドーナツを食べて最後にミルクティーを飲み干す。
「旨い」
全てを包み込み、味を調和させるこのミルクティーが一番最強なのかもしれない。
こんなミルクティーの様な人格者は・・と、妄想を膨らませたい気持ちもあるがそれはまた明日にするとしよう。
夜明け前の、ささやかな喜び。
本気の恋
どうして連絡くれないの?
連絡は返さないのにSNSは更新している。
友達とは遊びに行っている。
こんなに待っているのに。
もしかして嫌われているの?
不安イライラする。悲しい。
最悪。生理もきて具合悪い。
1ヶ月記念日、3ヶ月記念日、半年記念日、
誕生日、バレンタイン、ホワイトデー、クリスマス、今日は初めて手を繋いだ記念日。
好きって言葉、私ばかり言っている。
ずっと一緒にいたい。
ーーー
忙しい。飯食うのも気がついたら忘れる。
煙草吸ってトイレ行って、SNSちょっと覗くか。
こうゆう時の息抜きは男友達と飲みに行くに限る。
そういやあの子、元気かな?
ま、こっちから用件ないなら連絡は別にいっか。
近々飯でも誘いたいし、来週仕事落ち着いたら連絡しよ。
え?記念日ってそんなにあんの?
無理だろ、俺今出世かかってるし。そんな休めねー。
仕事は大事だよ、稼がないとお前も養えない。
いちいち言葉で言うか?好きって。
嫌いなら一緒にいない。
ーーー
男女なんて分かり合えないものだ。
どこが良くて何が楽しくて恋愛をするのだろう。
私がこの世で一番苦手とするものは恋愛なのだ。
毎回、あれだけ夢中だったあの人の事を、時間が経てばどこが好きだったのだろうと不思議に思うあたり、本気の恋ではなかったのだろうかと感じる。
恋愛のかたちは自由でいい。
今の時代でこそ、恋愛教訓本が多々販売されているが、男女の性質を説き、その上で相手に気に入られる様、自分を殺すやり方で駆け引きをする方法を述べた内容ばかり書かれている。
「誰かと付き合って恋愛すること」
これだけを達成する為なら、なるほどと思う内容であるが、自身の良さを大切にし、そこを良いと感じてもらう相手と関係性を築いていくのなら、もう少し、ナチュラルに人らしい関わり方をして相性を見たいものである。
私も本気の恋とやらを、生きている内に一度は経験してみたいものだ。
貝殻
幼き頃の私は忘れない。
アロハ風の温泉施設に土産物として販売されていたプラスチックのキラキラとした貝殻達。
それを母に買ってもらい、帰りのバスでゆっくりと眠りについた時はもう幸せそのものだった。
家に着いてから数日後。
そのキラキラとした貝殻達はトイレの洗面台の飾りとして業を成すのであった。
今でも売っているのだろうか。
気になる所ではあるが、せっかく大人になったのだ。
本物の綺麗な貝殻を砂浜にゆっくりと拾いに行きたいものである。
些細な事
些細な事と言う言葉を聞くと、いい事と悪い事どちらのイメージが思い浮かぶだろうか。
今の私は圧倒的に悪い事しか思い浮かばない。
そして、このテーマを聞いて瞬時に
「いい事?悪い事?」
と思考が働いてしまうあたり、私が両極端思考でネガティブな性格の持ち主であると、察しの良い読み手になら勘付かれてしまったであろう。
まぁ、それもいい。
それが私の本質なのだから。
さて。
本題に戻るが、私が些細な事と聞くと以下の内容が真っ先に頭の中に浮かぶ。
・些細な事を気にする相手
・些細な事でも事故に繋がる
・些細な事でも傷つく
全て人間関係で引っかかる内容ではなかろうか。
誰しもが生きている上でこの内容に基づいた経験し、はたまた、このフレーズを一度くらいは使用した事があるのではなかろうか。
私が思うに、これらは実に人間らしく、それでいて厄介な出来事や感じたくない感情・・なんというか、心にモヤがかかる気持ちになるものである。
逆を言えば人が自然に生活をし、この3点にあまり執着しない思考のまま共に生活出来る者同士は相性が良いとも言える。
私が悩む『些細なネガティブ』は人同士が生み出す『些細な思いやり』というもので緩和されるのかもしれない。
そうだ。
現代社会にはどうしても割り切れない事や納得のいかない事が多く、冒頭でも話した様に両極端思考が強い性質を持つ私は、人よりもストレスを感じてしまう。
だからこそ、些細なネガティブに翻弄されやすい。
そんな私を癒すのも『些細な思いやり』だ。
「お疲れ様」と声をかけてくれる同僚。
「割り切れなくて良いよ」と寄り添ってくれる親友。
「熱いので気をつけて召し上がって下さい」と弁当を温めてくれたコンビニ店員。
何気ないシーンで遭遇する些細な事。
それに助けられている人は多いだろう。私もその1人だ。
やはり人は心で生きるものだ。
だが1人では心が負けてしまう時もあるだろう。
些細なネガティブに負けてしまわぬ様、些細な思いやりを大切に、生き抜きたいものである。
どんなに小さな事だっていい。誰かと助け合って。
些細な幸せは、やがて大きな幸せに繋がるのだろう。