「大好きな君に」 (*創作)
久しぶりに飲みに来たのに、君は男の話ばっかりする。また振られちゃったんだね。
もっと違う話ないのかなって毎度思ってしまうけれど、終電から降りて、駅から出る時に
「ほんとアンタに聞いてもらって清々したわ!」
なんて、満面の笑みを向けてくるから、毎度許してしまう。
「送ってくれてありがとう。アンタも気をつけて帰るんだよ!」
君の家の前で君の笑顔が雪にキラキラと反射した。
僕と君の間の1mは、玄関の電灯に照らされてほのかに橙色に染まる。
「うん。」
僕は拳をギュッと握った。
今度こそ、今こそ、君に伝えよう。
「じゃあ、またね!」
喉まで出かかった言葉たちは、目に入る君の屈託のない笑顔とゆらゆら揺れる白い手のひらに触れて白いアスファルトの上に落ちた。
散らばった言葉は集めるまもなく溶けていく。
僕は精一杯の笑顔で僕らしく君に魔法をかけてみようと思う。
うまくいかないかもしれないけど
「僕がついてるから」
君はうなづいて家に入った。
僕は大切な友達だから、友達としてできる精一杯。
また何か吐き出したいことがあったら僕を呼んでよ。
聞くだけならいくらでもできるからね。
でもね、大好きな君に、覚えておいてほしいことがあるんだ。
よそ見をたくさんしても最後に、君をずっと見つめる僕を見つけてね。
君の背中を思い出しながら、僕は空を見上げた。
今日も太陽はまだまだ昇らない。
「たった一つの希望」
みなさんは初恋をしたことはありますか?
私はあまり覚えていません。
野球部の彼だったか、部活の先輩だったか…
恋心というのは何歳になっても分からない。
近年、「好き避け」なんて言葉もあるように、素直になれない人間も多いようです。
私だってその一人だ。
お話したければ話しかければいいのに、いざ本人を目の前にすると自分の語彙力、知識、話題の貯蓄が全て空気に溶けていくみたいに言葉が出てこなくなる。
慌てる私を、冷静な自分が一生懸命隠して、変なことをしないように好き避けをしてしまう。
冷静に考えてみよう。
そんな相手など、自分に相応しくないのだ。
自分が頑張らなければ関係を構築できないのであれば、構築できたとしてもずっと頑張らなければならない。
恋人でも友人でも、自分がリラックスした状態でいられるべきである。
無理など初めからするべきではない。
こう仮定すると、避けてしまう相手は、自分に必要でないから本能的に遠ざけているとなるだろう。
もし、これを読んでいる人の中に、好き避けをしてしまう自分を奮い立たせて頑張ろうとしている人は、これをいい機会に諦めてみるのが良いだろう。
希望が叶うなら、こんな面倒なことを考えることがなかった頃の自分に戻って、もっと純粋な初恋を繰り返したい。
ただ、逞しくて輝いている背中を追っていたい。
「欲望」
昔から華奢な女の子に憧れていた。
ハンガーにかけた洋服を見ながら「これくらいぺたっとした体の子っているよね」と思いながらそれになりたかった。
当時は太っていたわけではない。
しかし、服を着ると太った子が着ているみたいに服が膨張して見えた。
10年後、それは「骨格ストレート」であるからだと分かった。
骨格という言葉を聞いて絶望に似た感情を覚えた。
憧れていたあの体にはなれないことを知った。
そして私が着ていたオーバーでゆるっと着れる服はどうやら骨格に合わないらしく、私は足やお腹の露出の多い服が似合うらしい。
ちなみにお腹は弱く、出すなど考えられない。
叶うならば、骨格ウェーブになりたい、、、
『電車に乗って』
自分の荷物を置くために一人ぶん席を使う人って、どーゆー教育を受けてきたんですかね。
あれか、もし妊婦さんなど体にハンデを抱えてる人がきた時のために、そうでない人には座らせないようにしてるのか!!!
道徳の授業の賜物だ!いつも敗北ばかり謳われる義務教育史上初の勝利だ!
「君は今」
『知らぬが仏』
なんてよく耳にするが、年を重ねるごとにそういった言葉が身に染みる。
小学生の時によく公園で遊んだ友人が、中学では不登校になっていたり
中学生の時に教室を沸かせていたムードメーカーが、高校生になりパパ活で荒稼ぎしていたり
高校生の時によく放課後に一緒に買い食いをしていた部活の同期が、就職して職場の男性を食い荒らして兄弟にしていたり
いやでも耳に入る噂たち。
自分の中で揺るぎない輝きの思い出たちが、虫に食い荒らされ穴ぼこになっていくような、そんな気分になる
環境の変化は、その人の人格を大いに変えてしまう。
むしろ、私が関わり合った人間たちは、そういった環境の変化の中で形成された人格であり、そこからさらに変わっていくのは自然なことであることに間違いはないのだろう。
20代というものは、お酒が飲める。タバコが吸える。そんな浅はかなラベルの下に、子供な自分と決別しなければいけないと言う難問が隠されているらしい。
綺麗な思い出の中に閉じ込めている。
綺麗な思い出の中に閉じ込められている。
その自覚を持って変わりゆく周囲と、変われない自己の狭間で、幾度も安堵と失望を繰り返すのだろう。
そして、きっとどこかで「私」の話を聞いて失望している人もいるのだろう。
失望をしたくないのであれば、させたくなければ、
思い出の中にいる人間を思い出から引っ張り出すべきではない。そして今を知るべきではないのだ。
知らぬが仏である。
そして、人から伝え聞かなければ「今」を知ることができないような人間なぞ、今の「私」には必要がないのだろう。