僕は猫派だ。ただ、猫が大好きというほどでもない。犬か猫かで訊かれれば猫というだけである。子犬か子猫かで訊かれても同様である。
まぁでも猫が可愛いのは間違いない。子猫ならば尚更だ。しかし、なぜ僕は猫派なのだろうか。考えたことがないだろうか。なぜ自分は猫派or犬派なのかと。そこには必ず何か自分の体験が関係している筈である。例えば親が猫を飼っていたから猫派、犬の博物館に行ったから犬派、という具合だ。僕は幼い頃、野良の子猫に近所の子供達と一緒に餌やりをしていた。多分、僕の猫派はそれに由来している。
今考えるとあれはいけないことだった。野良猫に餌をやっては駄目なのだ。でも、あの体験が自分を猫派にしていたと思うと感慨深い。
秋風とは、基本的に秋に吹く風という意味。ただ、秋風が吹く、秋風が立つという形で男女の間の愛情が冷えてくるという意味にもなるらしい。
「秋(あき)」と「飽き(あき)」でかけているという。要するに親父ギャグ?へぇ、こういうのでもユーモアというものがあるのだなあと感心している。それを云うなら「秋」とつくものなら、何でもイケる気がする。秋空、秋雨、秋晴れ、、、何か違うんだよなあ。何が違うのだろうか。……秋風はやっぱり独特の雰囲気がある。物悲しいような、懐かしいような。それが「飽きる」という哀しいニュアンスに通じるのではと思う。
秋風が吹いてきました。恋人の皆さん、大丈夫ですか。あともう少しでクリスマス。そこまで何とか耐えましょう。秋風が吹いても、負けないでください。
いつか、このアプリで文章を書かなくなる日が来るのだろうなと思う。飽きるのか、忙しくなるのか、それとも、一人暮らしでもするのか、それは分からないけど。
そうすれば今、これを読んでいる方々ともお別れだ。もしかしたら近い将来かもしれないし、意外と続けるかもしれない。それは断言できないけれど、十分、今でも愛着が湧いている。このアプリにも、貴方にも。そして一段階生活を豊かにしてくれた運営にも感謝している。そんな時、もしも僕の書いた文章を読んだことがあります、という人に出会えたら――それは会社かもしれないし、友達かもしれない。
まぁ、出会ったとしても、お互い気付かないだろうけど。だとしても、少しでも目の前にいる貴方の一部分になれたら。これは、「その時」に書こう。
――また会いましょう。
僕は絶叫系と呼ばれるアトラクションが苦手だ。スリルというものを楽しむことが出来ない。だから、遊べるモノといえば観覧車かお化け屋敷、あとは迷路くらい。
もし、スリルを楽しむことが出来たら……?やっぱり人生の幅が広がるんだろうなあ。他にも嫌いなことがある。辛い物を食べること、外に出ること、ホラーゲーム
……ここで気付く。僕、強い刺激が苦手だ。ドッキリも苦手だし、後ろから話しかけられるのも苦手。そういうのも含めて楽しむことが出来たら……。「スリル」を楽しむことが出来る人が羨ましい。
こういうのって鍛えて何とかなるのか?もしスリルを好きになることが出来るなら、ホラーゲームもやってみたい。辛い物も食べてみたい。遊園地で思いっきり楽しみたい。
翼はあるクセにその機能を果たしていないということか。結局、飛べない翼は邪魔になるだけということ?
まぁ、そうじゃないよね。例えば、人の腕だって、元を辿れば鳥の翼(これを相同器官という)。確かに人の腕では空を飛ぶことはできない。「翼」という役割を果たすことができなくても、「腕」という役割を全うしている。それで良いと思う。飛べない翼を持っているならそれを有効に使おう。たとえ翼として機能しないとしても、見方を変えればどんなモノにも変化する。腕として使っても良い。傘としても使えそう。体に巻けば暖かくなる。これからの季節、役に立つかも。
いらないから捨てる?勿体ない。ほら、貴方が持っているそれも、あれも、これだっていつか宝物になる。