すれ違い。この言葉には、物としてのすれ違い、形では表せないすれ違いの二通りがある。「貴方はすれ違いざまに何かを渡した。」これが前者。心のすれ違い、これが後者。
僕には心がすれ違う相手などいないのだから、物としてのすれ違いの方がしっくりくる。例えば、僕等は人生で、「え?そんなに」というほど指名手配犯とすれ違っていたりする。指名手配の効果が低いことに気が付く。貴方は未解決事件の犯人の顔を思い出せるだろうか。僕は、あまり思い出せない。多分、すれ違っても構わないだろう。まぁ、僕はテレビに出ているタレントの顔でさえすぐに思い出せないのだから、参考にはならないだろうが。
すれ違い、というお題で恐らく、ポップな文が多いだろう。その中で、指名手配を書いた、僕の文は浮いてしまうかもしれない。それも魅力だと思ってくれたら嬉しい。
秋の空はよく、高いと表現される。所謂、「高く澄んだ空」というのは、秋晴れであることが多いように思う。そういや鰯雲だとか、いやぁ、秋晴れはいいねぇ。
秋は夕暮れ、、、昔は暗記していたんだけど……。なんだっけ?枕草子、清少納言。暗記はしていないけれど読むたびに美しいなぁと思う。貴族の日記みたいな、気楽な視点から読んでみたら、日本語の美しさを感じられる。春は夜明けがいいよ、夏は夜がいいよ、秋は夕暮れがいいよ、冬は早朝がいいよって書いているだけなのに、その理由付けが美しい。三大随筆たる所以であると思う。
秋晴れは、夏晴れにはない魅力がある。それは、言葉では表すことのできない。だからこそ、美しい。みんなも秋は本を読むのもいいし、絵を描くのもいいけど、たまには空を見上げて、目を休ませよう。
長いお題、困るんだけどなあ。「忘れたくとも」なのか、「忘れたくても、忘れられない」なのか、幾度か迷ってしまった。
忘れたくても忘れられない過去、みたいな投稿が多そう。でも、今の僕に忘れたい過去なんてないなあ。それとも、もうちょっと人生経験を積めば生まれるのだろうか。ただ、僕が思うに、忘れたい過去など生まれないと思う(僕は、ね)。黒歴史も含めて僕の歴史だから。ただ、いじめられたり、トラウマ植え付けられたりしたら忘れたいかもしれない、、、それこそ、トラウマは忘れたくても忘れられないものだけれど。
忘れたくても忘れられない油揚げ……。忘れたくても忘れられないお稲荷さん。忘れたくても忘れられないキツネうどん。あぁあ。
「やわらか」とは、壊れやすい。微妙だ。という意味があるらしい。壊れやすい光など、ある筈がないので、微妙な光という意味だろう。
つまり、複雑で繊細な光。もう、こんな時期なので、午後7時にブラインドの隙間からそんな光が差すということはない。ただ、選挙カーがうるさい。だから、こんな夜を台無しにされる。やわらかな光というのは、朝日に使われるイメージがある。やはり、こんな時期なので、午前5時に朝日、というのはないのだが。流石に朝から選挙カーは走っていないだろう。つまり、やわらかな光を朝から満喫できるのだ。
やわらかな光は五感で感じる。目、耳、鼻、口、肌。この一つでも台無しになれば、やわらかな光は煩わしい光へと変貌する。つまり、何を言いたいか。選挙カーを朝から走らせないでくれ。
貴方はその鋭い眼差しで何処を見ている?未来?道の先?自分?他人?僕は鋭い眼差しで何を見ている?ううん、自分の見ている物って、案外、分かんないや。
何処を見てもいいと思う。ただ、知っておかなければならないのは、決して全てを見渡すことは出来ないこと。だから、世界中のみんなで世界を見渡す。現実、それでも全てを見ることは出来ない。じゃあ、1人だったらますます見渡せないに決まっている。だからさ、その絶対的な鋭い眼差しを持っていたとしても、1人で背負い込まないでほしい。
未来だって、自分のことも他人のことだって、全部を見られるなんて、ありえない。どんな目を使ったとしても。事実、僕は僕のことを一番分かっていなかった。