君が隣に居るだけで
君が私の話を頷き聞いてくれるだけで
君の低く優しい声を聞くだけで
帰りの退屈な道が、一瞬で鮮やかになる
一人だとどこまでも続く長い道のりが
早送りされたように一瞬で終わりを迎えてしまう
ずっとずっと、大好きな君の隣にいたいのに
風でなびくカーテン
日の匂いを撒く風たち
シーブリーズの香りを纏う空間
気になるあの子の残り香
誰もいない教室
肌を焼く様な熱い風
私を見てと言わんばかりの光を放つ太陽
生きている証を叫び轟く蝉の声
風と共に歌う風鈴の音
机にこぼれてとけたアイスクリーム
時間とともに揮発して姿は見えずとも、ベタつき甘ったるい香りを残していく
まるで彼女のようだ
甘い香り、耳に張り付いて残る声
彼女はとけたアイスクリーム
僕の心にこぼれた一滴のアイスクリーム
この頃は心の底から笑うことが出来ない
他人にどう見られているのか
どう思われているのか
嫌われてないか
そんなことが頭をよぎって、心が疲れる
心に光すらささない、先の見えないくらやみのよう
またいつか、心の底から笑える日が来るかな
またいつか、他人に怯えず暮らせる日が来るのかな
何故人は映画や本の中の人物に共感し、涙を流し時には怒れるのだろう。
それはきっと、物語の誰かに自分を当てはめ感情移入をしているからだ。
したことの無い恋愛、冒険、闘争を擬似的に経験しようとする表れでもあるのかもしれない。
だがそれでは何故、人はしたことも無い経験や感情を考え感じれるのに、近くにいる人に対しては考えることができないのか。とても不思議に思う。
物語に出てくる人物たちと同じように、近くにいる人も感情はある。葛藤もある。
なのに何故寄り添うことができないのか。
会ったこともない、ましてや架空であり現実で存在しない人物に感情移入しているのに。
今目の前にいるその人を見ようとしない。
何故傷つけれるのか。何故無関心でいられるのか。
映画の脇役が、現実世界が辛い。どこか遠くへ行きたい。というセリフがあったとしよう。
その時、鑑賞している多くの人が可哀想に。と言うだろう。きっとこの人は救いを求めているだけで、ハグをして肯定してあげるべきだ。と感じるかもしれない。
ただ現実では?どこか遠くへ行きたい。辛いんだ。と言っている人を見かけた時、肯定し受け止めてあげれるのか。でもあなたにも原因があったのかもしれないよ。と否定的にならないと言い切れるのか。私だって辛いけど頑張っている。と我慢の自慢大会になってはいないか。
映画を観る時のように、今いる目の前の人が持っている感情や葛藤に少しでも目を向け自分に置き換えることも大切なのではないか。