この頃は心の底から笑うことが出来ない
他人にどう見られているのか
どう思われているのか
嫌われてないか
そんなことが頭をよぎって、心が疲れる
心に光すらささない、先の見えないくらやみのよう
またいつか、心の底から笑える日が来るかな
またいつか、他人に怯えず暮らせる日が来るのかな
何故人は映画や本の中の人物に共感し、涙を流し時には怒れるのだろう。
それはきっと、物語の誰かに自分を当てはめ感情移入をしているからだ。
したことの無い恋愛、冒険、闘争を擬似的に経験しようとする表れでもあるのかもしれない。
だがそれでは何故、人はしたことも無い経験や感情を考え感じれるのに、近くにいる人に対しては考えることができないのか。とても不思議に思う。
物語に出てくる人物たちと同じように、近くにいる人も感情はある。葛藤もある。
なのに何故寄り添うことができないのか。
会ったこともない、ましてや架空であり現実で存在しない人物に感情移入しているのに。
今目の前にいるその人を見ようとしない。
何故傷つけれるのか。何故無関心でいられるのか。
映画の脇役が、現実世界が辛い。どこか遠くへ行きたい。というセリフがあったとしよう。
その時、鑑賞している多くの人が可哀想に。と言うだろう。きっとこの人は救いを求めているだけで、ハグをして肯定してあげるべきだ。と感じるかもしれない。
ただ現実では?どこか遠くへ行きたい。辛いんだ。と言っている人を見かけた時、肯定し受け止めてあげれるのか。でもあなたにも原因があったのかもしれないよ。と否定的にならないと言い切れるのか。私だって辛いけど頑張っている。と我慢の自慢大会になってはいないか。
映画を観る時のように、今いる目の前の人が持っている感情や葛藤に少しでも目を向け自分に置き換えることも大切なのではないか。
頬を伝う涙を見られたくなくて、雨の中飛び出してみた
雨の香りが鼻の奥にツンと刺激する
雨の音が、嗚咽混じりの泣き声を消してくれる
雨が全身を包んでいく
涙のあとも分からないくらい、ずぶ濡れになった
呆れるくらい、びしょ濡れだ
あなたが心配そうに私の後を駆けてくる
大丈夫
あなたのために泣いたわけじゃない
自分のための涙だ
あなたとの別れを惜しむ涙なんかじゃない
だから私の涙を見せてあげない
私の涙は価値のあるものだから
届かないのに空に向かって、今日の出来事を話してしまう
夜空に輝るあの星があなたのようで
亡くなってから、昔着ていたあなたの服を着て思い出すばかり
思い出だけで、胸が張り裂けそうで
少し服に残ってるあなたの香りに包まれる
今日ね、沢山頑張ったんだ。だから褒めてよ。昔のように、頭を撫でてよ。頑張ったねって言ってよ。
また、私の名前を呼んでよ。
恋しいよ。おじいちゃん。
好きなのか、どうなのかも分からなくなってきた
それでも別れず傍に居続けるのは
とどのつまり、恋なのか愛なのか、それとも情なのか惰性なのか