「楽園ってどこですか?」
道行く人に尋ねてみると、ある人は分からないと言い、ある人はここが楽園だよと言い、ある人は怪訝な顔をし、ある人は変な宗教の回し者かと追い払う仕草をした。
だけど、私は楽園に行きたいのである。
何故かって?
それは私が死んでいるから。
このまんまプワプワ浮いててもしゃーないし、かと言って地獄とか怖いしそもそもそんな悪さしてない…と思うし。
折角死んじゃったのだから、生きている内に経験できないことをしてみたい。
だから私は楽園に行きたいのだ。
しかし、誰に聞いても行き方を教えてくれない。
水先案内人が必要なのかしら?とも考えたけれど、それっぽい感じの人もいない。
しゃーないのでプラプラ浮遊霊をしてみた。
お腹も空かないし眠くもならないしフリーダムって最高!
どうせなら世界中巡ってみよっかなー…と思ったけれど、どうやら私は自分が死んだ場所からある一定の距離までしか離れられないらしい。
残念、浮遊霊ライフ。
あーあ、誰か何か、なーんでもいいから面白いことないかなー?
……続く
風に乗って
ふわりふわりと舞う
行き先は何処だろうか
答えは誰も知らない
そんな旅も
一生に一度くらいはいいんじゃないだろうか
風の向くまま
誰にも告げず
ただひたすら空を行く
雨の日にはどこかで通り過ぎるのを待ちながら
終着駅を決めぬままに
ただひたすら飛び続ける
そしていつの日かたどり着いたその場所に
来年の春
私は黄色のお日様のような花を咲かせるだろう
「刹那」は「永遠」
だって 今もまた 「刹那」が幾重にも繋がって
「今」を形作っている
「今」が連なって
「永遠」を彩る
だけど どうして
「刹那」と聞くと
物悲しく感じるのだろうね
「今」も「永遠」も 悲しくなんかないのにね
生きる意味……か。
正直、私にはなんも浮かばない。
何一つ取り柄はないし、バツイチ子持ちだし、仕事はパートで着の身着のまま実家に転がりこんだ疫病神。
「子どもの為に生きるのが生きる意味っしょ」と言うのは正しいかもしれんが、ソレ、親としての義務を果たしているだけ。もっと言うと、別に私じゃなくたって正直なんとかなる。
生きる意味ってのはさ、「私が私である為の理由」であり、「私じゃなきゃダメなこと」って感じなんだよね。あくまで個人的な意見なんだけどさ。
生きる意味が何かなんて、こっちが聞きたい。誰にも必要とされないし、世の中の役に立つような立派な人間でもない。私がいてもいなくても世界は勝手に回り続けるし、私がいなくなったとしてもいつかは忘れ去られる。
いっそのこと、誰かに「あなたは𓏸𓏸の為に生きている」ってラベルシールを貼ってもらいたいくらいだ。
それくらい、私は私の人生に意味を見つけられないでいる。
誰かに必要とされたい。
人より頭一つ抜けた何かが欲しい。
デカい夢を持ちたい。
……こんなことを考える私は、馬鹿なんだろうか。
そもそも、「善」と「悪」を定めるものは何だろうか。神様だろうか。人の心だろうか。だとしたらなんて曖昧で不確かなものに判断を委ねているのだろう。
「人を叩いちゃいけません」
「法律違反はいけません」
「泥棒はダメよ」
「相手の嫌がることをしないの」
そのルールが間違っていたらどうするのだろう。相手が嘘をついていたらどうしたらいいんだろう。自分の物は盗られたのにどうして自分は盗っちゃいけないのだろう。叩くことでしか自分のこの悔しさや感情を相手に伝えきれなかったらどうしたらいいんだろう。
人は皆、行動に善悪をつけたがるが、思い考えていることには善悪をつけたがらない。なぜなら、その人自身の内にある状態では善も悪もないからではないだろうか。
考えてみて欲しい。友人が「銀行強盗でもしよーかなー」とヘラヘラしながら言ったとして、自分は本気で怒るだろうか、あるいは止めるだろうか。「悪」ということについて語るだろうか。友人を「悪だ」と断じるだろうか。
いや、恐らく大半の人間はしないだろう。
何故ならまだ実際に行動していないからだ。
と、ここまでを振り返ってみた時、「善悪」を定めるものは分からないが、「実際に行ったこと」に対して「善か悪か」をジャッジするのだろうことは分かった。誰しも人の頭の中は見ることができないし、見たところで自分に実害が無さそうならば誰も諌めはしないからだ。
ならば、善悪を定めるのは、結局のところ「自分にとって害が無ければ善、害があれば悪」となるのだろうか。それもまた曖昧ではあるが、合理的とも言える。つまりは「大多数の人間にとって害がなければ善であり、大多数の人間にとって害があれば悪である」というのが、あらゆる場面で適応されている気がするのだ。
ここに、少数の意見はきっと反映されていないのに。