琉架

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そもそも、「善」と「悪」を定めるものは何だろうか。神様だろうか。人の心だろうか。だとしたらなんて曖昧で不確かなものに判断を委ねているのだろう。
「人を叩いちゃいけません」
「法律違反はいけません」
「泥棒はダメよ」
「相手の嫌がることをしないの」
そのルールが間違っていたらどうするのだろう。相手が嘘をついていたらどうしたらいいんだろう。自分の物は盗られたのにどうして自分は盗っちゃいけないのだろう。叩くことでしか自分のこの悔しさや感情を相手に伝えきれなかったらどうしたらいいんだろう。
人は皆、行動に善悪をつけたがるが、思い考えていることには善悪をつけたがらない。なぜなら、その人自身の内にある状態では善も悪もないからではないだろうか。
考えてみて欲しい。友人が「銀行強盗でもしよーかなー」とヘラヘラしながら言ったとして、自分は本気で怒るだろうか、あるいは止めるだろうか。「悪」ということについて語るだろうか。友人を「悪だ」と断じるだろうか。
いや、恐らく大半の人間はしないだろう。
何故ならまだ実際に行動していないからだ。
と、ここまでを振り返ってみた時、「善悪」を定めるものは分からないが、「実際に行ったこと」に対して「善か悪か」をジャッジするのだろうことは分かった。誰しも人の頭の中は見ることができないし、見たところで自分に実害が無さそうならば誰も諌めはしないからだ。
ならば、善悪を定めるのは、結局のところ「自分にとって害が無ければ善、害があれば悪」となるのだろうか。それもまた曖昧ではあるが、合理的とも言える。つまりは「大多数の人間にとって害がなければ善であり、大多数の人間にとって害があれば悪である」というのが、あらゆる場面で適応されている気がするのだ。
ここに、少数の意見はきっと反映されていないのに。

4/26/2023, 8:31:55 PM