ひなまつり
桜のつぼみが遠慮がちに枝から顔を覗かせる、春。恵那は久しぶりに近所の公園を歩いていた。心なしか風景は華やいでいて、陰鬱で重苦しい冬の空気からようやく解き放たれたと言わんばかりに浮き足立って見えた。
だが──恵那の足取りはそんな景色に相応しくなく、見えない壁を押しながら進んでいるかのように重かった。
冷たい水の底で今も誰かに見つけられるのを待っている片割れのことを思うと、恵那の心は凍り付いたように固く閉ざされ、目に映るどんなものも見えず、耳に聞こえるどんな音も聞こえないのだった。
周りには交通事故だと言うしかなかった。しかし、今考えても何が起こったのかわからない。
ちょうど雛祭りを間近に控えた日だった。車は人気のない海沿いの道を走り、恵那と妹の理央は買ってもらったばかりの小さな雛人形を膝に乗せて、五人囃子のどれがお気に入りかなどと話していた。両親は突然車を停めたと思うと、恵那だけを車から降ろした。ドアを開けたときに感じた潮風の匂いが妙に印象的だった。恵那に別れを告げるときの両親の、何か言いたげな顔を覚えている。結局何も言わずに車に戻った両親は、妹を乗せた車を発進させようとした。そのとき──反対車線からトラックが姿を現し、ものすごい音が響いた。恵那は思わずしゃがんで目を閉じた。再び目を開けたとき、両親の車はなかった。慌てふためくトラックの運転手と、めちゃくちゃにひしゃげたガードレールがあるだけだった。
両親の遺体は水中に沈んだ車の中から見つかった。しかし、理央は結局見つからなかった。周りには、一緒に事故にあって自分だけ奇跡的に助かったのだということにした。間違いとも間違いではないともいえるその話をする度に、心の一部分が捻れていくような感覚がした。
あれから五年──。季節が移り変わったところで、その美しさが恵那を癒すことはなかった。今後どれだけ時が経とうと、自分が自分である限り、この呪いからは永遠に逃れられないのだ。
スマイル
感情をなくせ
感情をなくせ
私が私であることから離れて
私の周りにバリアを張れば
何を言われても
どんな目で見られても
それは私に対するものじゃない
私はただ
望まれる言葉を返して
望まれる笑みを振りまく機械になるのだ
感情をなくせ
それはもう私のものではない
どこにも書けないこと
誰かが喜んだ分だけわたしのしあわせは減る。
誰かが悲しんだ分だけわたしのしあわせは増す。
わたしの感情は世界の営みにあわせて伸縮自在にコントロールされる。
でもわたしが幸せになったところで他の誰かが不幸せになるわけではない。
わたしが悲しんだところで他の誰かは変わらず笑っている。
私だけが引きずられて壊れていく。
こんな感情誰にも言えない。
時計の針
時計の針はわたしのこころ。
どうしようもなく沈み込んだとき、チクタクチクタクと、時計の針はぐるぐるとまわりつづける。
チクタクチクタク。
どうしようもなく気が急いたなら、時計の針はわたしに寄り添うように、一緒に駆けてくれる。
チクタク。
時に残酷に、わたしの知らないあいだに針が違う方を向くことがある。
そしたらもう、寝てしまおう。
また明日になれば、針は真上をさして、わたしのことを待っていてくれるはずだから。
お題:溢れる気持ち
目に見えるすべてのものが私を軽蔑している。耳に入るすべての言葉が私を責めたてている。世界はまるごと私の敵だった。どこからも弾き出されて彷徨い続けるうちに、どうしようもなくドロドロとした気持ちが喉の奥から溢れ出しそうになる。
もしもそのまま吐き出してしまったら、私は足元の暗い穴に引きずり込まれて、二度と這い上がれないことを知っている。その穴の中が、劫火で焼かれるような苦しみに満ちていることも。そうしたらもはや人の形を保っていられなくなることも。
落ちてはいけない。溢れ出しそうな気持ちを喉の奥に押し込めて、息を止めて、蓋をする。それで窒息するのだとしても、それでいい。私は最後まで人間でありたい。