仕事をサボろうと思った。サボる、というか、本当に身体はダルいんだけれど。1回そう決めてしまえば心は固い。
朝6時に起きて、一番に職場に電話をいれて、もうどう思われていようと今日は休む。
熱をはかってみると本当に微熱があったから、いつもの薬をもらいに病院に行くことにした。正直、ラッキーと思った。
平日の真昼の病院で、人の流れもまばらな待合室。そこにはない、無を漂うような時間が過ぎてゆく。
暇だから何か文字に起こしたいけれど、もともと
文章は得意ではないし、こんな昼間に夜景に想いを馳せられない。
でも、だいたい目を閉じればそこには夜がある。
しばらくすると、ぽつんぽつんと瞼の奥に灯りが
滲み出てきてくるから、ああこれは、仕事の帰り道の川だとわかる。
あそこは本当に汚い川だ。川端康成の言葉を借りれば、「死の色をした緑」。たぶんあの川のこと。
東京の人間と歴史、感情、すべてを煮詰めたように淀んでいる。
そんな川は夜になると、闇の色を吸い込んで、静かにビルの灯りを映し出す。川沿いを走る電車が水面をきらきら反射させて、絶え間ない光がとうとうと流れてゆく。
いつもはドブ臭くってしょうがない緑の川の匂いが、ふと、静謐な夜の匂いに変わる瞬間。
「銀河鉄道の夜みたい」と友達がいってから、星のない都会の雑多な景色が、少しだけ嫌いじゃなくなった。
帰りの車窓から、暗がりの川を走る光を、空っぽな頭でただ眺める。とりとめもない日常の一部として、それは心の空隙にまで流れ込んでゆくみたい。
だからどうってことはないんだけれど、
明日は仕事に行こうとは、思ってる。
「眠れない」とぼやいているのが、最初はそんな
深刻なことのようには思えなかった。
僕には何も見えていない。昔からそうだ。
ほがらかで呑気で、誰よりも優しい、やさしすぎる君。幼い頃から僕の手を掴んで離さなかった彼女の手に、いつしか錠剤のゴミが握られるようになっていたことすら、気づくのは遅かった。
今やっと、深く眠りにおちている彼女の頬に触れることもできず、僕はただ、時がしんしんとめぐっていくのをまっさらな頭で感じている。
そういえば君は、絵本が好きだった。きっと今でも読んでいるはず。小学校の時、『よだかの星』の読み聞かせで泣いていたのを、男子たちに馬鹿にされていた。よく覚えている。
その命が燃え尽きるまで、空高く飛んでいったよだか。小さな星になった醜い鳥。優しすぎるその心は、地上にはもったいなかったのかもしれない。
どうすれば君を救うことができるのか、救いたいという感情がおこがましいことなのか。君が人を傷つけることを恐れず、君が傷つくことのなくなる世界はどこにあるんだろう。
その答えすらわからないのに、僕は君をわかりたいと思っている。身勝手でもなんでも、愚かでも醜くても、ただ、生きていてほしい。それだけなんだと、伝えたい。
いつ目が覚めるのかわからない君の命は、まだ燃え尽きることなく、くすぶっている。
男が忘れていった水晶のキーホルダーは、今も洗面台の上に置きっぱなしにしてある。連絡したら、「捨てていい」とだけ返ってきて、もうこの人とやりとりする必要はないのだと悟った。
職場で倒れてからそのまま仕事をやめ、逃げるように男との同棲をはじめて、私にはもう何も残っていなかった。埃のつもった多肉植物、冷蔵庫で腐った茄子、消費期限の切れた牛乳。そういった惨めさの中にあって、私ははじめて、ただ生きることに執着してればいいのだと、ある日そう思えた。
それからときどき、捨てられなかった水晶を、窓から差し込む光に透かしてみたりなんかする。
アクリルでできた安っぽいそのきらめきが、何もかもどっちつかずで不安定な私を鮮やかに刺す。
腐ったものたちに囲まれて、泣きわめいたり、落ち込んだり。私は最初から、この薄ら透明な世界の向こう側に、ただ息をしているだけ。
こんな刹那のきらめきが、今を生きようと思えるのに充分足り得る理由になることだってあるのかもしれない。奇妙なことだけれど。
しなやかに僕を抱く彼の手が嫌いだ。
彼のその白い指先は欠けている。断面には塞がったような跡があるから、後天的に傷ついたものなんだろうとは思う。理由を聞いたことはない。
ほっそりと薄い、ユリの花びらみたいな手のひらが僕の頬を包もうとするとき、嫌でも欠けた指先を感じざるをえない。月はいくらから欠けているほうが風情があると千年前の人間はいったが、僕は彼の手を愛せなかった。
「優しいやつだ」といわれ生きてきて、誰もを平等に愛そうとする心に人の生きる価値があるのだと母から教わった。あなたは優しい。純粋で優しすぎるその心が心配だと、婚約者に言われたこともある。
だから、たかが指先の1本欠けた手に、こんなにも激しい感情を抱かされる自分自身に戸惑い、ただ恐れていただけなのかもしれない。
そして今夜も、人差し指の欠けたそれが僕のほうにのびる。僕は魔物から逃れるように払いのけた。生々しいその断面は、いつか僕を呑み込んでしまうだろう。
「恐ろしそうだ。」
彼の蒼白い顔がかなしげに綻ぶ。しかしその手をおろすことはない。
「かといって義指をつけたら、君はもう僕に執着してくれないんだろう?」
逃げたくても逃げられないのはどちらなのかと、彼の唇が動いた気がした。淡い月夜に世界は落ちている。この薄明かりが、いとしい婚約者の不安を背にして、彼と逢瀬する僕の醜さを透かし出してしまう。
「君も不完全だよ。綺麗だ。」
彼はサモトラケのニケでも、ミロのヴィーナスでもない。美術品として以外では、どこか欠けているものを愛することはできない。拒み続ける僕の心に、失われた白い指先は妖しくほのめき、離さない。
わたしは「そらちゃん」と呼ばれる。
良い空と書いて空良という名前なのに、いつも大雨や雷を起こして、なごやかな周囲の空気を曇天に変えてしまう。わかっているのに、小さい頃からそうだった。
わたしの癇癪がはじまりそうになると「今日の空模様も怪しいな」と、家族は少しおどける。空模様という言葉がいい意味で使われている場面なんてない気がする。だいたいが、さっきまで晴れていたのに崩れてきそうな空をさしているのだ。
わたしは、わたしの気分が崩れかけてきたら物陰に引っ込む。どこにいても、できるだけ空気とか石ころとかになりすまそうとする。めぐりめくる空模様はわたしのなかにしまいこむのだ。そうすれば誰も傷つけることはないし、わたしも傷つかない。
そして、今日もダメだった。せっかくの誕生日パーティーだったのに、急に大泣きをしたくなってしまって、わたしはやっぱりベランダの隅に逃げるようにうずくまる。いつもこうだ。たぶん、これから先も。曇天、雷、大嵐。
「そらちゃん」とわたしを呼ぶ声がして、顔をあげるとお母さんがいた。わたしが生まれてきてから
今日まで、恐らくいちばん傷つけてしまっている人。
お母さんの手には薄いアルバムがあった。
昔火事にあってほとんど残っていないんだけれど、おばあちゃんの部屋にこれだけあったの。
これはそらちゃんのアルバムよ、と。
それには、あまりみたことのない、幼いわたしの姿がおさめられていた。仏頂面で激しく泣きじゃくっているかと思えば、次の瞬間には弾ける笑顔。写真の下には、懐かしいおばあちゃんの字がある。
空良ちゃん そらいろ空模様
「似た者同士だったわよね、ふたり。」
どんな空模様でも良い空、あなたでいいんだよと。夜の月が眩しく感じる。明るい星空にそのとき気づいた。
この名前は、おばあちゃんがつけてけれたものだったと思い出した。