あなたの激情を抱えながら怯える顔が、今も脳裏に焼き付いています。
あなたは強かった筈です。実際、この村の長たる地位につき、村の決め事の決定権を持っておられましたし、遠方からわざわざやってきた盗賊を軽々と摘み出せるくらいの身体の強さもあったと記憶しております。強いあなたのおかげで、村の争いごとはめっきり減ってしました。
そして何より、家の中でのあなたの強さは揺るぎようがありませんでした。あなたは、気に入らないことがあると、よく鍛え上げられた腕で私の母の薄い腹を殴っていました。まだ幼かった私は、その意味を咀嚼できずに、部屋の隅に蹲り、浮かび上がった恐怖と戦っていました。それに必死でした。いずれ標的が私になるんじゃないかとか、母は無事なのかとか、今考えると、そんなことをまず考えたくなるような状況ですが、そんなことは全く頭にありませんでした。ただ、恐怖と戦っておりました。
そのような日々を過ごしていましたが、ある日の朝、珍しくあなたが母を呼ぶ声で目が覚めました。あなたは変な声で言いました。母がいないと。私の胸には、激しい焦燥感が浮かび上がりました。そして暫く経って、優しく私の頭を撫でてくれた母の白い手を思い出して、あなたに気づかれないように、静かに泣きました。先程の焦燥感はもう、ありませんでした。ふうと息を吐き、母がいないことに、納得しようと試みました。そうしないと、私という人格が津波にのまれるように消えてしまう気がしました。母が殴られていたのはよく見ていましたから、母が逃げたのは必然だったのだと、そう思うことにしました。
それから当然と言うべきか、あなたの標的は私になりました。ただ、母の腹を殴るとき、あなたは言葉一つ発さなかったのに対し、私の腹を殴るあなたはぶつぶつとなにかを呟いていました。そして母の前では真っ黒に凪いでいたあなたの瞳は、大嵐の中の海のように荒れているように見えました。母の美しく整った顔とは違い、私の顔は醜く歪んでおりましたから、始めはそれが原因なのかと思っていましたが、それは全くの見当違いであったことに途中で気が付きました。あなたは、煮えたぎる想いを持ちながら、捨て犬みたいに怯えているようだったからです。
あなたがそれから10年後に突然死ぬまで、あなたは私の腹に随分ご執心の様子でした。あなたが本当に私を見ていたのかは今では分かりようがありませんが。
私は大人になりました。ですので、あなたが私の腹を殴ったあのとき、あなたは母を見ていたのだとか、そんな見当くらいは付けられるようになりました。大人になっても私は物を長く覚えるのが苦手なままでしたので、あなたのことも、腹の痛みも、すぐに忘れてしまうだろうと、思っていました。でも、そんなことはございませんでした。今も脳裏には、あなたの顔が居座っています。忘れんぼの私があなたを今でも忘れられないのは、血の呪いのせいなのでしょうか。見当を付けたものの、確信を持てないからなのでしょうか。
あほらしいですね。こんな話よしましょう。ああでも、あなたと楽しめる話題はこれくらいしか思い浮かびませんでしたので、つまらない話も許して頂きたいものでございます。
脳裏
空を掴むふりをして水平線をなぞる。もう何百回もそれを繰り返した気がする。微かに足跡が残った砂浜、遥か遠くに霞む海鳥、空は藍色に半透明を被せたような、そんな色をしていた。
何もしたくなくて、でも何かしないと溺れてしまう。そんな日々を生きてきた。私の人生は、常に正体不明の怪物からの逃亡劇の連続だった。特別凄惨な出来事を経験した訳では無いし、人と比べて不幸な訳でも無いのだと思う。それでも、逃げ続けるだけの毎日はやはり苦痛で、息継ぎをするように、何時しか時折この砂浜に逃げるようになっていた。逃亡の檻さえ耐えられず、逃亡しようとするなんて、私の心の薄っぺらさには、はたはた困惑する。でも、海辺でなら息が出来ることも確かであり、私はこの事実をただ受け入れた。海辺でただ呼吸をする時間は、とても心地よかった。波のごうと鳴く音に乗って、束の間の自由を手にした気分になった。白い砂浜を歩いていたあの時は、確かに幸せだった。
こうして無意味で最高の逃亡を今も続けている。私が佇む間、波は荒々しく、力強く私を見ている。水平線をなぞりながら、少し時間が経って、ここに良い月が浮かぶ絵を想像した。底なしの寂寥感に、私は思わず笑ってしまった。今夜は、良い月が見られそうだ。
意味がないこと