・可愛いくてつい切り取ったペットボトルのラベル
・何枚も連写してある写真
・「ノート貸してくれてありがとう」の付箋
・SNSでの見栄
実家を出た時、18年分の荷物を冬物の服を入れるケース一つ分だけ残して、他はあげるか捨てるかして来た。
私は断捨離が得意だけど、きっとどこへ行くのにも連れて行くもの、どこに行っても捨てられないものが私の人生の大切なものなのだと思う。
このもの(形があるにせよ無いにせよ)に溢れている世界で、それと出会えたことと、大切に手元に残しているということは、それと出会えずにいたことよりも遥かに幸せで、尊い。
だってその気になれば、いつでも置いていけるもの。
-いつまでも捨てられないもの-
思い出した、親友にドタキャンされた夏祭り。
その日は部屋で1人、花火の音だけ聞いてたっけ。
親友は彼氏ができたばっかりだったっけ。
そう言えば、そんな夏、あったっけ。
-お祭り-
空が泣いてるんだ。
-いつまでも降り止まない、雨-
大丈夫
ちゃんとご飯が美味しいから
-あの頃不安だった私へ-
「あの時は」から始める文章は美しく感じる。
「あの時は」ということは、今の私は「あの時」を客観視できるほど成長しているということで、自分でもその成長をしっかり感じているということだ。
だけど一つだけ、「あの時は」から始められない思い出がある。
厳密に言えば、「あの時は」から話し始めると、あの時の私に戻ってしまう思い出。
あの時、好きな人がいた。
洗面台とリビングでお互いにメイクしている時、たまに声が聞こえづらくてこちらを覗きに来る彼女が好きだった。
西野カナのライブ映像を流して、モノマネしながら楽しそうに熱唱してる彼女が好きだった。
長めのハグでお別れするのも、美味しいものを食べた時に目を大きく開けるのも、朝のちょっと枯れた声も、全部好きだった。
あの時も今も友達には変わりないけど、私の気持ちはずっと一線を超えていた。
一年経った今でも、思い出として消化できずにいる。
まだ痛む古傷があるくせに、人に話す時はあたかも消化された思い出のように話すけど、本当はあの夏の思い出にずっとしがみついている。
友達以外の、これからもずっと側にいれる肩書きが欲しかった。
なぜ気持ちを伝えなかったのか?
あの時は、性別を超える恋愛に自信がなかったから。
-逃げられない呪縛-