たとえ間違いだったとしても
最近自分の人生を振り返る。
あの時ああしていれば、
この時ああしていれば、と考える。
しかし、そういう時は自分の信念で判断する。
だから、今現在も同じことをするだろう。
他人からすれば、間違いであったかもしれない。
しかし、自分の信念に基づいた判断だから。
たとえ間違いだったとしても、
甘んじて受け入れる自分がいるだけだ。
それ以外何もない。
後悔もしていない。
何もいらない
現在、満ち足りている。
余計なものはなく、足りないものはない。
元々物欲はなく、ミニマリストかもしれない。
必要最小限のものしかない。
生涯6回ほど引っ越しをしたからだ。
そして、家内の家に転がり込んだ。
今、必要なものはと聞かれると、
こう答えるだろう。
家内と愛犬と、一緒にいるこの家である。
これ以外、何もいらない。
必要ない。
もしも未来が見れるなら
そんな怖いことはない。
そこまでの過程が見えてしまう。
できるなら、見たくない。
でも、幸せな姿であれば、安心するかも。
でも、どちらか選べるのなら、見たくない。
錯覚でもいいから、幸せに向かって、
ひたむきに人生を歩みたいから。
救いのない未来を見たくないから。
ひたむきに行きますので、幸せにしてください。
神様。
無色の世界
何の夢もなく、
何の望みもない世界。
留まりたくなく、
抜け出したい世界。
人は、目的がなくなると、
色のない世界に埋没すると云う。
灰色に近い無色の世界に。
何とかして、色のある世界へ、
辿り着けるよう、必死に生きねばならない。
人として、生きるよう。
桜散る
なんとも物悲しい言葉だ。
花びらが散った後の桜がとても冷たくされるように
誰にも心の片隅に見せたくはないものがあるよね。
と、風は「ささやかなこの人生」で表現した。
日本人の感性で、桜の儚さが愛おしいのではないか?
桜の咲いてから、散るまでの時間が短いところに、
自分の人生に共感するところがあるからだ。
桜の咲いている一週間が、人生の絶頂のように、
感じるからかもしれない。
きっと、千年前の平安時代から変わっていない。
しかし、こういう考え方もある。
春の終わりでなく、初夏の始まりである。
新緑の世界で、思い切り生きてやる。
そう言い聞かす自分がいる。