あなたは可愛くて優しくて強くて人を傷つけない。みんなあなたの事が好き。でも私はブスで配慮ができなくて自己中で人を傷つける。みんな私のことが嫌い。
だけれどあなたは私が好き。正直しんどい。
そんな経験はあるだろうか。
何度もあなたを嫌いになろうとしたし、私のことを嫌いにさせようとした。でもそうはならなかった。私がただ最低になってあなたが最高になった。
だからもうあなたを傷つける方法は選ばないよ、
自分も傷つけないよ、誓った。
最近主観的な文章しか書けない。さいあく
納得のいく文章がかけなかった日
皆は少し開いた扉に恐怖を覚えたことはあるだろうか。扉から漏れる一筋の光を時折両親の影が慌ただしく遮る。鳴り響く怒声。耳を劈くような叫び声。今すぐ光をなくしたくても体が動かない、物音をたてたくない、存在がバレたくない。
私にこのような過去なぞないが、生々しくて嫌になるこの想像力は相手の経緯などを考えるために必要だろうと思う。私は辺りを飽和するような大声が嫌いだ。
光、言わば目標などは時には頼りになるが時には煩わしいものだ。光を遮る影はいつだって付き纏う。光が眩しくて、影が鬱陶しくて、扉を閉じたこともあるだろう。
真っ暗闇に嘆いている者も、そこから脱すべく閉じ込めた光をまた取り戻そうとする者もいるだろう。どんなに影が遮ろうと進む者もいるだろう。扉を開けて飛び出す者もいるだろう。
その判断が間違っていたかどうかは自分で決めるものであり、他人に決められるものじゃない。
私はどれも間違いとは思わない。己の選択を持っている人を私はただ愛おしく思う。周りに無茶だ、迷惑だ、怠慢だ、逃げだ、無理だと言われるかもしれない。それでも意見を曲げないのも、自分の意見を変えると決断するのも結局は自分自身なのだ。間違えて、間違えさせろ、そうやって人は生きていくのだと私は思う。
例えば眠れなくて一晩中歩き回ったあとの夜明けの空とか、網戸の隙間から聞こえる蝉の声とラジカセから流れるポップな邦楽とか、くしゃくしゃになったテストとカバンからこぼれ落ちる単語帳とか。
例えば1人電車に揺られて静かな山奥のお寺に参拝に行ったり、少々うるさい図書室で音楽と小説に夢中になったり。
人生には様々な出来事がある訳だが、こんなものは共有しなくていいのだ。誰に見られずとも言わずとも理解されずとも大切で素敵で嫌悪でカラッポなただの出来事なのだ。
人は皆それを好きだと言うかもしれない。けれども自惚れちゃいかんよ、自分の意見の全てに賛同できるのはいつだって自分しかいないのだ。拒否は否定では無いのだよ。気遣いと優しさを履き違えちゃいけないよ。自分を曲げてはいけないよ。
いつだって言い聞かせるのだ。
自分を律し、やりたいことを曲げず、ただ好きなように生きる。いつになったらできるだろうか。
「人間関係は鏡である」とはよく言ったものである。
ようは自分を大切にすれば自ずと相手も大切にできているということである。
少し自分語りをすると、私は結構人に嫌われる。それは私の態度であったり行動であったりまぁ他にも性格などに難があるからだと思う。昔っから好きな人にはお節介を焼いてしまう癖があり結構ウザがられてた記憶がある、5歳ほどだったか。
依存してしまいやすいのでそれを隠すために色々取り繕っていたら本当の自分が分からなくなった次第である。
他人のことが分からなくて当然なら自分のことが分からない今の状態がベストなのだろうか。いやしかし分からないなりに理解しようと歩み寄ることが私には美しく見えるのだ。相手を分かろうとする気持ちは本当に繊細で、なさすぎたら無関心、ありすぎると決めつけであったり救ってやろうなどという気持ちが出てきてしまうように思う。
私は私、あなたはあなた。
奇妙だ。実に奇妙。
人間というものが私には酷く恐ろしいのだ。
私というものが人間には酷く恐ろしいのだ。
気持ち悪い。