皆は少し開いた扉に恐怖を覚えたことはあるだろうか。扉から漏れる一筋の光を時折両親の影が慌ただしく遮る。鳴り響く怒声。耳を劈くような叫び声。今すぐ光をなくしたくても体が動かない、物音をたてたくない、存在がバレたくない。
私にこのような過去なぞないが、生々しくて嫌になるこの想像力は相手の経緯などを考えるために必要だろうと思う。私は辺りを飽和するような大声が嫌いだ。
光、言わば目標などは時には頼りになるが時には煩わしいものだ。光を遮る影はいつだって付き纏う。光が眩しくて、影が鬱陶しくて、扉を閉じたこともあるだろう。
真っ暗闇に嘆いている者も、そこから脱すべく閉じ込めた光をまた取り戻そうとする者もいるだろう。どんなに影が遮ろうと進む者もいるだろう。扉を開けて飛び出す者もいるだろう。
その判断が間違っていたかどうかは自分で決めるものであり、他人に決められるものじゃない。
私はどれも間違いとは思わない。己の選択を持っている人を私はただ愛おしく思う。周りに無茶だ、迷惑だ、怠慢だ、逃げだ、無理だと言われるかもしれない。それでも意見を曲げないのも、自分の意見を変えると決断するのも結局は自分自身なのだ。間違えて、間違えさせろ、そうやって人は生きていくのだと私は思う。
11/5/2024, 11:06:43 AM