きっと明日も
「働きすぎだ」と叱られて調整したシフトは、それでも休日を多くは取れない。片や週6日、片や週5日。流動的なシフトと固定シフト。よほど運がいいか、意図的に休みを取らなければ2つのバイト先の休みが被ることはほぼない。これでもバイトを1つ減らしたから、労働時間で換算すればかなり楽になっているのだ。「そういうことじゃない」と君は眉間に皺を寄せるけれど。
得てして会える時間は限られる。どちらかのバイト先が休みでなければ、家に帰って寝て起きたらバイトに行く時間になってしまう。君はいつでも家に来ていいと言うけれど、行ったところで睡眠時間に大半を取られて君と言葉を交わす時間もない。かと言って、睡眠時間を犠牲にすると君は怒ってくれるから。
「今日家に行っていい?」
『今日はいないよ、日付が変わるぐらいに帰る』
「そっか、しょうがないね」
『遅くていいならおいで』
少しだけ体調が悪くて、なんとなく疲れが溜まってる感じがして。こういう時に顔が見たいと思うぐらいには君を大事に思っているらしい自分に呆れながらメッセージを送ったら、すぐに返信が来た。フリーランスで仕事をしているけれど一旦事業を畳むのだと教えてくれた君は、ここのところ夜は出掛けていることが多い。クライアントの希望で直接会って会議をするらしい。自分にはそれが普通なのかそうでないのか分からなくて、いつも「お疲れ様」と言うしかない。
『帰る前に連絡するからね、それまで寝れる?』
「寝れるかな、分からない」
『大丈夫だよ、もし寝れなかったらうちで寝たらいいから』
「ごめんね」
『いいよ、家にいなくてごめんね』
君は君自身のことを”クズ”だと呼ぶ。普段なら否定するのに、こういう場合に関してはその通りだと思う。優しいクズだ。こちらを肯定しておきながら、要求を完全に飲むことはしないのに拒否を示すこともない。代替案を出しているように見せて、その実、君の都合の通りに展開を運ぶ。元より反抗する気はないけれど、きっと一生君には勝てないのだろう。
だから、きっと明日も聞いてしまう。「家に行っていい?」って
静寂に包まれた部屋
パシャパシャと音がする。音の主は未だに名前を覚えられない種類の亀で、調べたところ原産国はアメリカらしい。当初の予定より大きく育ったのだと君が嬉しそうに話すから、亀のことはよく分からないけれど愛されて育ってるんだねと話し掛けることから始めた。
人間のことが大好きらしいこの亀は、人間が動くと一緒になって動くから。寝ている君を起こさないようにとせっかく静かに起きたのにパシャパシャと音がする。
「ね、シオちゃん、しーだよ」
小声で話し掛けてみてもパシャパシャと水をかくだけで一向に大人しくはなってくれない。しょうがないか、亀だもんね。
独りごちて、薄暗い部屋の中をそっと移動して仕事着に着替える。昨日は遅くまでゲームをしていたから、きっと朝のお見送りはない。起こしたいわけでも起きてほしいわけでもないから、どうかそのまま眠っていてと心の中で話し掛ける。
玄関まで来ればさすがに亀だって大人しくなって、部屋は静寂に包まれる。ワンルームのアパートだから玄関からでも亀の水槽は見えるのだけれど、亀からは見えていないらしい。かわいいね。
ここは君の部屋で、自分は今のところただの訪問者だから。教えてもらった場所から鍵を取って、外から鍵を掛けたらドアの郵便受けにそっと落とす。カランという音が響いて少しだけ心がざわつく。
起きないでね、君の邪魔にはなりたくないから。
別れ際に
バイトが終わって家に帰る。寝て起きて次のバイトに行く。掛け持ちをしている自分にとって、バイト以外の時間は睡眠を取るための時間でしかなかった。食事は通勤中に車の中で食べられるものを。浴槽に浸かる時間があるなら睡眠を。どうにか作った休日は動かない身体と巡る思考のせめぎ合いで終わった。
「働きすぎだ」と諭されて。
「ご飯は食べなさい」と叱られて。
「寝れないなら一緒にいてあげるから」と甘やかされた。
一緒にいる時間を増やしたくてシフトを調整した。
話を聞いてほしくて家で食事を摂るようになった。
手を握っただけで嘘のように眠れるようになった。
本当はバイトなんて行きたくない。正社員に向いていなかった自分が、社会生活の為に渋々選んだ道がバイトであって、出勤の前はいつだってため息を吐いていた。
世間的には早朝と呼ぶ、まだ太陽も昇らない時間に出勤する自分に合わせて、一度起きてきてくれる君の声にならない「がんばって」を聞きたくて。「がんばるよ」と応えたくて。今日も今日とてバイトに行くのだ。
別れ際に見る眠たい顔が愛おしい。