お題「君と最後に会った日」
「飲みに行こうよ」
五年程前だったか。ぱったりとお酒を飲むことを止めてしまった君に、そう声をかけるのはいったい何度目のことだろうか。
「行かないよ」
間髪を入れずにすげなく断られるのも、いったい何度目のことだろうか。もうお決まりのようになってしまったつれない返事に、ちぇーっと唇をつき出しつつ、子供じみた態度でふてくされて見せる。ついでに床に大の字になりつつ、じたばたと手足を動かし、駄々をこねてるの代名詞と言っても過言ではない動きも付け加えておく。
彼は可哀想なことに私の奇行を見慣れてしまっているので、特に戸惑いもせず「今日は掃除機かけてないから床汚いよ」と一言。そうか、床汚いのか。身を呈してまでモップになりたいわけではないので、素直にむくりと体を起こした。唇をつき出しているのはまだ継続中だ。
そんな私を見て、彼は困ったように眉を下げて、
「僕が禁酒中なのを知ってて、毎度毎度飽きもせずに声をかけてくるのは、何というか。そうだな、君は性格が悪い」
そう言って苦り切った笑みを浮かべた。
他人に対して「性格が悪い」と真っ向から言える人間の方がよほどどうかと思うが、それを言ったところで水掛け論に終わりそうなので話の主軸をずらしてみる。
「でもお酒好きでしょう?」
「大好き」
「浸かりたいくらい好きでしょう?」
「浸かるくらいなら飲みたいかな」
「浸かってるうちに誤って溺れてもいいくらい好きでしょう?」
「酒に溺れるというのはそういう意味ではないよ」
水掛け論ではなくなったが、実りのない会話に終わる結果なのはどちらにせよ変わらないようだ。何の成果も得られなかったからモップになりたい、もとい床で転げ回るくらいしか鬱憤を晴らす方法がないなと思ったので、もう一度身を投げ出そうとすると、止めるように彼が私の両手を握って座らせる。振りほどこうと緩く手を振ったが、ぎゅっと握られている。
離してくれるつもりはないらしい。離してくれないならと、手遊びを始めることにした。せっせっせーのよいよいよい、と掛け声をかけるとえぇ……?と彼から珍しく困惑の声が上がった。聞こえなかったことにする。
そうやってしばらく手遊びを続けていると、ぽつりと
「僕の酒癖の被害を一番被って、一番迷惑してるのは君なのに」
そう、ちょっと申し訳なさそうな声色で、それでいて聞き分けのない子供に言い聞かせるように彼は言った。
確かに、彼はお酒を飲むと人が変わる。おそらくかなり酒癖が悪い方に分類される人だ。とは言っても、暴力を振るったりはしないし暴言も吐かない。セクハラをしたりもしない。ただ、
「べちゃべちゃに泣いて懺悔し始めるくらいが何だっていうの」
「止めなよ、わざわざ口に出して言うの」
すさまじい程の泣き上戸だ。その酒癖を突き付けられ、君は複雑そうに口の端を歪める。酔っている間のことは記憶にはないらしいが、他人からの評価で知り、色々なところで同じことを繰り返しているのを知り、 そして「迷惑をかけたくないから」と言って、飲むことをすっぱりと止めてしまった。
でも、彼が酔っ払ってやることは、本当にそれだけなのだ。
こういうことがあった。僕はそれが悲しかった。
ああいうことがあった。僕はそれが悔しかった。
どうすれば良かったんだろう。こうすれば良かったのに。
つらつらと吐き出しながら静かに泣くだけなのだ。
「わたし、あの君も好きなのにな」
「君は本当に性格が悪いね?いや、悪いのは趣味かな」
手遊びに興じていた手は、「そろそろご飯作るよ」の声掛けと共に彼の方から離された。すっと立ち上がって台所へと向かう彼の背中を眺める。
本当なのに。
君は普段は絶えず穏やかに笑っていて、何でも器用にこなしてしまって、いつの間にか色んな人に頼られがちな人だ。頼る筆頭は私なんだけれど。
でも、君はお世辞にも朗らかとは言えない、どこか影が差す人でもある。頭の中ではややこしいことを絶えず考えていて、それを口に出せずに独りで静かに泥濘にはまっていく人だ。
そんな君が酒に酔ってやっと、箍が外れてやっと、頭の中にだけあった考えを、後悔や懺悔を吐露して自分を責めてさめざめと泣く。
それに安堵を覚え、そして好ましいと思うのは、多分そんなにおかしくはないと思う。
君が独りで抱え込んでいる重荷を下ろして私に少しだけ分けてくれる、その瞬間が嫌いなわけがない。
私が「君は頑張っているよ」と頭を撫でれば、涙でぐちゃぐちゃになって上手く喋れない状態で、聞き取れるかどうかもわからない小さな声で「ありがとう」と返してくれるのを、愛しいと思って何が悪い。
それに、いつも君を頼ってばかりの私が君に頼られて、君と対等な関係なのだと実感出来るのはあの瞬間くらいだったのだから、その瞬間を手離したくないと思うのだって、ある意味当然のことなのだ。だと言うのに、
酒に酔った弱い君と最後に会った日は、もう五年も前だ。
重荷を最後に分けて貰えたのはもう、そんなに前だ。
またあの弱い君に会いたい、いや絶対に会う、と決意を固めながら。
私は晩御飯が出来上がるのを待つ間、彼に酒を飲ませる計画を綿密に練ることにした。
お題「繊細な花」
しとしとと、世界中に降りそぼつような雨だった。
水の中にいるような、そんな感覚に陥らせるような、雨が降っている。僕はそんな天気にすぐに嫌気がさして、憂鬱に任せて外を見やるだけだった。
だけど、彼女は同じ光景を見て何を思ったのか。辛抱ならんと言わんばかりに、とても楽しそうに、白いワンピースの裾を翻しながら縁側から飛び出していった。雨に降られてはきゃあきゃあとはしゃぐ声を上げている。時折うひゃひゃ、みたいな品のない笑い声すら混じっている。元気だ。
僕と彼女ではたぶん、見えている世界が違うんだろうな、と思う。
僕は重い腰を上げた。彼女はこのまま庭で存分にはしゃぎ倒すであろう。ならば拭うためのバスタオルを取りに行かねば。
彼女は遊び終わって満足したら、多分そのまま上がってくる。自分がびしょ濡れだろうと、歩いたあと廊下がぐちゃぐちゃになろうと、何一つお構い無く。どうせ床を拭くのは僕になるのだろうから、そうするくらいなら今のうちに備えておいた方が労力が少なくて済む。
戻ってきて、縁側の方へ座り直す。畳んだバスタオルを脇におく。さっきよりも少し近いところにいる彼女は、もう濡れ鼠であった。
ほんの先程まで水滴を弾いてきらきらとしていた艶やかな黒髪は、雨が染み込んで、重そうにぐっしょりとして、水を滴らせている。髪と同じように、服にも先ほど翻った軽やかさはもう既にない。ワンピースはしとどに濡れて、下の肌色がうっすら透けている。
あれみたいだ、何だっけ。そうだ、サンカヨウの花を思い出す。
白い花びらの素朴な花。長雨に濡れた花びらは透明になって、ガラス細工のようになる花だ。色々と条件が重ならないと花びらは透明にはならず、どしゃ降りの雨に降られると、その雨粒の重さにさえ耐えられずに簡単に散ってしまうほど、繊細な花らしい。
彼女の内面はともかくとして、外見は清楚で儚げな人だから、サンカヨウのようだと言ってもそれほど齟齬はないのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えていると、へぐしっ、と些か豪快なくしゃみが聞こえた。寒そうに自分の体を抱き締め、腕を擦っている彼女と目があう。
「また何か考え込んでた?」
彼女が首を傾げながら問う。
「君がまるでサンカヨウの花みたいだなと思って」
そう答えると、彼女の首を傾げる角度が増した。おそらく、サンカヨウの花を知らないんだろう。それがどういったもなのかを説明する。
彼女は雨に打たれながら、うんうんと話を聞いてくれる。
何故、屋根の下に入れば良いのにわざわざそこで。何故。
そう思いながらも説明を続けた。話終えるくらいのタイミングで、もう一度彼女はくしゃみをする。
「私がその何とかっていう繊細な花だったら、今の衝撃で散ってた」
「君はサンカヨウじゃないから散らないけど、風邪は引くかもね。冷えきる前にちゃんと拭こうね」
そう言って彼女を屋根の下に引き寄せて、タオルで包む。思った以上にぐっしょぐしょだ。お風呂上がりの濡れそぼった犬とか、何かこんな感じだよなと思いながら、わしわしと拭いてやる。とたん、
「雑!拭き方が雑!私が何とかって繊細な花なら散っちゃう!」
彼女が、上手いことを言ってやったぞと言わんばかりに得意気な色を顔に滲ませながら不満の声をあげ始める。
うん、僕はいらないことを言ってしまったかもしれない。
その懸念の通りしばらくの間、僕が何かと彼女を雑に扱う度に『私がサンカヨウの花なら今ので散っていた』と不満を主張するのが、彼女のマイブームと化してしまった。