︰雨に佇む
改札を通ろうと定期券を取り出したつもりが、掴んでいたのはクシャクシャになったポケットティッシュだった。チャックを全開にしてガバンの中身をグチャグチャひっくり返しながら定期券を探した。いいや、探しているかのような行動を取っているが、ただパニックになって慌てふためいているだけ。無い、無い、どこにも無い。今更取りに帰ったって遅刻するのでさっさと券売機に向かう。
ジャラジャラと財布を振るが丁度払える金額の小銭がない。これだけ大量にあるにもかかわらず、ピッタリが無い。仕方がないので500円玉を入れると、カラン、と戻ってきた。ああクソ、カラン、ああクソ、カラン、ああクソ、カラン、ああクソ!!500円玉はカランと無慈悲な音を立ててこちらを見上げる。とっとと1000円札を突っ込んでボタンを押した。カツンと切符1枚と欲しくもない小銭がジャラジャラ流れ出てきた。さっさと鷲掴んで改札を目指す。
切符が使える改札は右端の2つで、空いてそうな奥側に並んだ。さあさっさと電車に乗ろうと切符を構えたところで前に並んでいた人が「ピンポーーン」と鳴らした。何度かICカードをタッチしているが上手く改札を抜けられないらしい。イライラだとかそんなレベルを通り越していっそ何も感じなかった。電車は一本乗り損なった。
吊革を持って外を眺める。体がだるくて立っているのでやっとだ。寝不足の影響か酷い頭痛がして目眩もあった。ガタンゴトン、ガタンゴトンと規則正しい音と、時折対向する電車とすれ違う瞬間のバーーーーという音だけを聞いていた。揺られて、内臓も揺られて、この場で嘔吐するのを耐えることばかり考えていた。
そうしていると「ぅあ〜〜〜〜!!あーーー!!」と赤子の泣き声が耳を突き刺し脳を揺さぶった。一気に吐き気がこみ上げてきたがなんとか喉で押さえ込む。正直な所体調不良に赤子の泣き叫ぶ声は堪えた。でも赤ちゃんは泣くのが仕事だからなぁ、お母さんも一生懸命育ててるんだ、きっと大変だろうなぁ、ああ、あぁ、ぁ、無理だ。耐えられない。
ガラガラと扉が開いて人の波に押されながら電車のホームへと降り立った。嘔吐することはなくなんとか耐えたが、ボロボロ流れてくる涙は一向に止められそうになかった。哀れだ。「大きくなったら誰もあやしてくれない」なんて当たり前な文章を脳内でふと生成してしまって自爆していた。あーあ、あーぁ、惨め。
階段を降りて地下鉄へ。コンビニ寄って一番安い昆布おにぎり1つ購入。また切符を買って改札へ、改札通ったら急いで1番線。乗車して数駅、また下車したらそのまま3番線へ。決まった道を通って決まった3号車1番ドアへ。そしてまた乗る。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、どうして?、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、もう嫌なの!、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン
ン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、お願いだから、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン
ガタンゴトン、ガタンゴトン、分かってくれる?、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、おやすみなさい、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、ガタンゴトン、じゃあね、ガタンゴトン
プーーーーーーーーーーーーーーーー
我に返る。息を吸う。おにぎり、を持っている。もう昼食の時間になっていた。おにぎりに齧り付く。モチャモチャ、白米は小さな幼虫を噛んでいるみたいで、プチプチ、昆布は内臓を潰しているみたい。美味しいのか美味しくないのか分からない。今食べているものが自分の体の一部になるんだと思うと、このおにぎりが可哀想だった。
これから帰りの電車が来るからなるべく早く地下鉄へ向かいたかった。でも傘を忘れた。今朝スマホの天気予報で雨マークを見たはずなのに。いや、今思えば本当にただ見ていただけ、眺めていたただけだった。傘なんて頭に無かった。
もう服も鞄もどうでもいい。濡ればいい。もう全部どうでもいい。そんなことより早く家に帰りたい。
家に帰って、何するんだろう。洗濯物をずっと溜めてる、洗わないと、違う、洗濯機に入れて回したのに干さなかったやつ5日も放置してる、臭くなってるからそれから手を付けないと、その変にほったらかしてるゴミ袋いつ出せばいいのかな、早く食器洗わないと、もうカビ生えてた、使える食器ももうない、違う、もうとっくに使える食器なんてなくてずっと紙皿と割り箸ばっか使ってた、そういえばご飯最後に炊いたのいつだっけ、また炊飯器カビの温床になってる、めんどくさいな、嫌だな、ご飯買って帰らなきゃ、冷蔵庫の中のきゅうり、腐って溶けてたの片付けないと、最後に料理したのいつだっけ、料理?りょうり?ってどうやるんだっけ、しばらく電子レンジしか使ってなかったな、机の上に積み重ねてる食べたあとのゴミ、早く纏めなきゃ、虫湧く、ハエ邪魔、それより風呂入らないと、シャワー浴びなきゃ、汚いよ、不潔、分かってるのになんでできないのかな、そうだ、電球切れてるのも変えなきゃ、もうずっと部屋が暗い、『朝日を浴びたら健康になります。まずはカーテンを開けましょう!』ねえ、ねえ、カーテンってどうやったら開けられるの、カーテンの前に積み上げちゃったゴミ袋どうしよう、ねえ記事書いてる人教えて、どうしたらいいのか分かんない、どこから何から手を付ければいいのか分からない、どうしよう、どうしよう、どうしよう、帰って、どうするの?
雨が冷たい。
雨が冷たい。みんながスローモーションみたいにやけにゆっくり通り過ぎて行く。今日は灰色の空。雨は冷たい、でもなんだか温かいような感覚がする。ゆっくり、ゆっくり。何かがぼやけていく。皮膚がバリバリ剥がれて浮かんでいってるような感覚に陥る。何してるんだろう。今自分はどこにいるんだろう。今って“ここ”にいるのかな。どこに立ってるんだろう。どんどん自分から遠のいてく。上なのか、後ろなのか、奥なのか、斜めなのか、どこかへ離れていく。幽体離脱でもしてるみたいだ。ここって、どこで、今、なにしてるんだろう。
パポ!パッパポ!パポ!パッパポ!パポ!ざーーーーパポ!パッパポ!ペポ!パッパポ!ざーーびちゃびちゃざーーーーパポ!パッパポ!ペポ!パッパポ!ざーーーーパポ!ペッペポ!パポ!ざーーーーーーパポ!びちゃ!ペポ!パッパポ!ざーーーパポ!パッパポ!
何か音が聞こえる。何か混ざって気持ち悪い。頭の中がぼんやり白くて黒くてモコモコしてる。
ざーーーーーーーーーざーーーーー
『あ、おかえり〜。雨凄いねぇ、よっと、丁度タオル敷いとこうと思ってたとこなの……って、ランドセルびちゃびちゃ!拭く用のタオルもいるか、持ってくるね』
ただいま、×××。あれは、誰だったっけ。この記憶は、一体いつのものだろう。なんで、今、
そうだ、今 雨が降ってるんだ。
横断歩道を渡る最前列で傘も差さず佇んでる。
ピヨ!ピヨピヨ!ピヨ!ピヨピヨ!
今は、この音、南北の横断歩道が青なんだ。じゃあさっきの音はカッコウで、東西の横断歩道の音だった。雨音と混じって、グニャグニャになってたんだ。
コツコツびちゃびちゃと足音を立てて皆通り過ぎていく。大丈夫、もう大丈夫だ、みんな普通のスピードだ。
帰らなきゃ、早く帰らなきゃ、なんで?なんだっけ。さっきまで何考えてたか忘れてしまった。早く帰って、それで、早く寝たい。
ここ、さむいなぁ。
『プーーーーーーーーーーーーーーーー』
︰向かい合わせ
「お腹いっぱい、どうしよう……」とこぼした瞬間「食べようか?」と尋ねた。
若干潔癖のきらいがある。他人と手を繋ぐことすらできない。他人の唾液がついたものを口にするなんてあり得ない。他人が使ったストローなんて咥えられない。食べ物なんて喉を通せたもんじゃない。飲み物の共有?食べかけを貰う?とんでもない!!
「お前が頼んだろ残さず食え」「胃袋に入る量くらい把握しろよ、自分の内臓だろ」「こちとら残飯処理じゃねぇぞ」と思う。さて口を開いてなんて言った?「食べたい」。冗談じゃない。
君が残した食べかけのピザ。冷めたチーズは風味が消え、口の中ではトマトソースばかり激しく主張している。なあ、アンタの唾液を味わったらお前の味を知れたって言えるのか?
気持ち悪い。「食べようか?」なんて言っておいていざ咀嚼し飲み込もうとすると気持ち悪いと思った。やはり潔癖は健在らしい。じゃあなんで食べたいなんて思ったんだ。
汚いとは思わなかった。 吐き気がする。
お腹いっぱい食べて幸せそう、嬉しい。食べすぎて苦しくなってる、可愛い。可愛いな、いいな、君は、 可愛いなぁ。
いくらでも食べてあげる。お腹いっぱいお食べ、好きなだけお食べ、好きなだけつまんで好きなだけ齧って、残ったら唾液ごと全部平らげてあげる。大丈夫、いくらでも食べられる。
唾液が腹の中にあるなんて気持ち悪い、耐えられないと便所で嘔吐するのに、次もまた「残ったら食べてあげる」なんて言う。
:いつまでも捨てられないもの
「紛い者」
人差し指を僕に伸ばして彼女は言った。
「僕の、どこが?」
わけが分からなくて苛立った顔をしそうになったところ、無理矢理笑って歪な顔になった。
「僕が偽物だって言いたいのか?」
彼女は真っ直ぐ、ただ見詰めてくるだけ。
「なあ、なんとか言えよ」
一歩踏み出そうとしたが足が動かない。
「なあって、なんか言えよ、なんで言ってくれないんだ。なあ、なあって」
喉が痛いほど震えている。大きく息を吸っても細く頼りない声しか出てこなかった。
「なんとか」
目を見開いて、ただ僕は突っ立っている。
ピン、と伸ばされた指がゆるく折り曲げられた。彼女は一度頭を下げて、また前を向いた。微笑んでいた。懐かしむように、哀れむように、寂しそうに、慈しむように。
あいじょう? 違う。これは
「愛してるよ。愛している。私はアンタのことを愛している。だから言わないと」
貴方の涙はしょっぱいのかな、甘いのかなぁ、なんて、きっとどうでもいい……貴方への愛を抱いている。
「紛い者だ」
愛している。
「紛い者だよ」
愛している。
「私は貴方を手放すときが来た。捨てる日が来たんだ。いつまでも捨てられなかったものを、私はようやく手放す日が来たのだ」
いつの間にか貴方は随分背が高くなって、顔立ちも大人びて、声も変わっていた。そうか、もう、小さく蹲っている君ではないのか。僕はもう役目を果たしたのか。貴方に僕は、もう必要ないのか。
「そっか」
笑えていたらいいなぁ。
ドン、とぶつかってくる衝撃を受け止めて、ギュッと抱きしめた。
愛している。愛してる。僕は君を愛していた。本当は紛い者でも何でもよかった。何でもよかったんだ。柔らかい部分を守ることさえ出来れば、優しい君のことを守ることができれば、それが偽物でも貼り付けたものでも誰かの焼き直しでも、それでよかった。なのに「見捨てないで」なんて。できないんだよな。分かっている。
紛い者で良かった。だってその方が、なあ、見切りをつけられる。
僕は君を愛している。君の心臓の音を僕は知ってる。君の感触を僕は知ってる。愛している。
これは愛情じゃない。貴方のそれも、僕のこれも、愛情ではない。でも愛してるんだ。それは違いない。でも僕らはこれを愛情と言えるほど愛を知らない。
甘い涙の味。
苦いビターチョコレートケーキを好むアイツとは違う、貴方は甘い涙の味が好きなんだなぁ。
もう本当に、知らない貴方がいるんだね。
貴方に僕は必要ない。
愛している。
どうかこれから貴方が歩む先が幸せなものでありますように。
:太陽
生きるよ、ちゃんと生きてくよ。苦しくても、吐いても、辛くても、泣いても、それでも生きるのをやめられないから、僕はちゃんと生きていくよ。暗がりでうずくまりながら太陽を求めて手を伸ばして生きていくよ。
泣き喚いても、叫んでも、落ち込んでも、全部僕だから。ちっぽけでも、ボロボロでも、それでも希望を探してるから、楽しい気持ちになれることを探してるから、抜け出そうと藻掻いてるから。苦痛でも希望を探して歩いてく。上手く生きようとすることを諦めて、手放して歩いていく。
どんな僕でも僕だから。僕の気持ちは他人も僕自身も否定できないから、どんなに辛くても生きていく。どんな僕でも僕でしかないから。歯を噛み締めるのも、暴力的なのも、人を刺したいのも、僕自身を攻撃するのも、赦したいのも、赦されたいのも、優しくなりたいのも、優しいのも、柔らかいのも、脆いのも、破壊的なのも、認められないのも、どんな僕でも僕だから、僕でいいから。
後がなくても、茨の道でも、どんな道でも僕の人生だから。
いつか死ねるその日まで僕はちゃんと歩いてく。
いつか死ぬその日まで太陽の光を浴びて生きていく。
この作品には以下のような内容が含まれています。
・暴力的な描写や身体的な苦痛
・精神的な苦痛やトラウマに関する内容
:つまらないことでも
青い色した丸型のデカいゴミ箱の蓋を開けると獣臭がした。ゴミ箱の中にいるお前をただ見詰めるしかできなかった。
――あ……はは、きっと近いうちに捨てられるんだと思う。僕どうなっちゃうんだろ……。
――どうもしねぇ、さっさとソイツから離れりゃいいんだよ。捨てられる前に逃げろ、そしたら匿ってやれる。
そんな会話をした翌日から音信不通になった。こんなゴミ溜めで異臭が漂う中、ゴミ箱ん中詰められて、何やってんだ。胎児のように丸まっているが足が見えない。膝から下はどこに行ったんだ。右腕も無い。どこだ、どこに、そもそもお前、生きてるのか。なんで逃げなかったんだ、なんでこっちに来なかったんだ。ヤベェ奴から逃げて隠れて安静にしてりゃ傷も癒えて元気になって、したらそのうち堂々と外出れるようになるはずだったろ。捨てられるって比喩だろ、なんで本当にゴミ箱に詰め込まれてんだよ。なんでお前は、早く連れて帰んないと、なんで
「ねえってば!!」
「あ!?」
体が跳ねた。なんだここ、世界が横向き……いや違う、自分が寝転んでいるのだ。
「酷いうなされ方してたから起こしちゃった、ねえ、大丈夫? あ、お水持ってこればよかったね、すぐ取ってくる!」
肩に置かれた右手、歩いていく姿、手も足もちゃんとくっついてる。
「お前、生きてるよな、手足もちゃんとあるし……」
「手足? 幽霊じゃないし生きてるよ、大丈夫……もしかしてまたあの夢?」
水を受け取って落ち着かない呼吸ごと腹の中に流し込んだ。気持ちが悪い。部屋に臭いものなんてないのに、鼻の奥でゴミ溜めの臭いがする。夢の中で嗅いだ臭いってのを覚えてるのも奇妙なもんだ。
「なんでだろうな、ずっと見る」
「大丈夫、現実じゃないよ。だってほら見て、こんなに元気に生きてるし!」
「そうだな……夢だ。お前がゴミ箱に入ってるところなんて一度も見たことねぇのに、はは、ほんとなんでだろな。見たことあるような気すらしてくんだ」
「気のせいだよ、大丈夫、大丈夫……」
■
ゴミ箱に入っていたのは僕じゃなくて君だ。
君と僕はご近所さんだったから小さい頃から一緒に遊んでいた。その日はインターホンを押しても「今日は熱を出してるから遊べないの、ごめんなさいね」と言われたから一人で遊んでいた。晴れていた空が今にも雨が降り出しそうな黒い雲に覆われて家に帰ろうとしている途中、ゴミ箱の中に入ってる君を見つけた。偶然だった。ポツンと置かれた丸くて大きな青いゴミ箱の中身が気になって、いたずらに開けてみただけだった。引っ張っても開かず諦めかけたとき、その頃親に教えてもらったペットボトルのキャップの開け方を思い出した。大きな蓋を半回転するとロックが外れて蓋が空いた。ワクワクしながら中を覗いたら君が入っていて、幼い頃だったからてっきりかくれんぼでもしてるのかと思った。それにしては半袖半ズボンから除く皮膚は傷だらけでアザができているし、具合が悪そうで、というかさっき熱を出してるって聞いたのに変だと思って直ぐに家に帰って母に伝えた。母の顔色も悪くなってすぐに付いてきてくれた。当時は理解できなかったが、虐待だったらしい。
胎児のように丸まって暗いゴミ箱の中に閉じ込められていた。今思い出しても躾というにはあまりにも痛々しくて、暴力的で、ただただ辛かっただろうなと心を痛めることしかできない。
己の過去を僕に投影して夢を見ているらしかった。それに気づいたのは本当に最近だ。週末定期的に部屋に遊びに行って夜通しゲームをしたり映画を見たりするほど仲は良い。僕はよく寝落ちしてしまうが君が眠っているところを見たことがなくて、聞けば「ショートスリーパーなんだ」と言われて「そうなんだ」で済ませてしまった。最近は少し眠れるようになってきたと言われ、変だなと思って事情を聞いた。
「ゴミ箱の夢を見るんだ」「こんな経験したことないのに、やたらリアルで気味が悪いんだよ」「正直怖い。蓋を開けてお前が死んでたら、お前が死んだら、いよいよ孤独になっちまうって」「お前が『捨てられる』って言ったのが妙に印象的だったんだ。それで夢に出てんじゃねぇかな。でもお前のせいじゃないんだ」
確かに前ちょっと厄介な恋人がいて、捨てられるだなんだと傷心したことはあった。僕がDVされてたから当時の僕は気が狂ってたんだ、捨てられるも何も僕が依存してただけで……とりあえず結果的に円満……でもないけど別れられたし、それはちゃんと伝えた。君に匿ってくれるって言われて僕も僕で甘えてしまっていたんだと思う。見捨てられたくないとか、でも怖いとか、嫌いじゃないけど離れたいとか、やっぱり嫌いかもしれないとか、さんざん吐露した。そんな僕の言葉と君の記憶が紐付いてより夢を複雑化させてしまった。
君は虐待の記憶がすっぽり抜け落ちている。だから夢を見ても自分のこととは思わないが、体験したことを体が覚えていてパニックを起こす。自分の脳と体が繋がっていない感覚は恐ろしいと思う。どうするのが正解なのか僕には分からない。無理に辛い記憶を思い出す必要はないんじゃないかとか、思い出してしっかり治療したほうがいいんじゃないかとか、しかしどれを選んでも君は傷つくだろう。ならばこのまま夢の話にしてしまって、僕を被害者だと思ってもらって、僕に投影することで巡り巡って自分自身を癒やすことに繋がれば、まだマシなんじゃないか。
一緒に過ごして楽しいことや面白いことを沢山すれば傷を癒すことができるんじゃないか。派手なことじゃなくてもいい。些細でつまらないことでも一緒にいれば孤独感だって少しはマシになるんじゃないか。恐怖や痛みより多く幸せを積み重ねれば、君だっていつかぐっすり眠れるようになったり、したら、いいな……。難しくても、少しでも楽に。
「気のせいだよ、大丈夫」
この言葉がもし呪いになっていたら……のろいでもまじないでもどちらでも良い。君が眠れるようになれるならどちらでも。