トト

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5/2/2024, 2:44:59 AM

小4くらいの時の話。図画工作の課題に「ステンドグラス」が出た。

小学生の事だから、本物のガラスではなく、黒い画用紙をカッターで切り絵のようにくり抜いて、裏からセロハンフィルムを貼ったものを、そう呼んでいた。

普通の絵とは違うので、クラスメート達は図案に悩まされているようだったが、

私は瞬時にアイディアが浮かび、黙々と作業を進めていた。

画面いっぱいに、大きくアゲハチョウの絵を描いて、切り抜いたのである。

私は図画工作が得意であったし、本来が昆虫少年なのだから(虫の絵はお手のもの)、これは失敗する筈がなかった。

私の作品を覗きに来たもの達は、口々に「すげぇ!!」などと声を漏らして行ったし、担任まで「おお!!」と驚いていた。

我ながら見惚れる出来栄えであった。後はカラーセロハンを裏から貼れば良いだけである、

私は何の迷いもなく、イエローのフィルムを貼り付けた。

素晴らしい作品が完成したのだが、それを見た担任が、

「あれっ?そうしちゃったの?・・・もったいないなぁ・・・」などと微妙な感想を口にした。

「えっ、?!」

「もっとカラフルにしたら良いのに、色は沢山あるんだから。」

これだから素人は困る、と私は内心呟いた。そのくらいの事は、私だってもちろん思い付いたのだが、その上で結局はこうしたのだ。

「いやぁ、やっぱり自然に近い色が1番ですよ。」

「そうかー、お前がそう思うならそれでいいけど、・・・もったいないなぁー」担任もそれ以上は引き下がるしかないのだった。

だが、しかし、

そのステンドグラスは廊下にも貼り出されたが、担任と同意見の声を幾つか耳にした。

そして、家に持って帰ったので、家族に見せてやると、やはり担任と同じような事を言われてしまったのである。

つまり、「この作品は確かに素晴らしいけど、もったいない!」である。

う〜ん、・・・・そうなのかな?

でも、・・・しかし、・・・


少し、試してみるべきだったかなぁ?

何十年もたったが、まだ良く覚えている。

5/1/2024, 1:36:48 AM

我が家と祖父の家は至近距離にあったので、とても頻繁に行き来していた。

祖父は下駄屋(主力商品は靴であったが下駄屋と称していた)で、簡単な修理なども請け負っていて、

仕事部屋で作業しているのを、よく近くで見ていたものだ。優しい人で、叱られた記憶が全くない。

祖父は酒もタバコもやらなかった。唯一の楽しみは、温泉(公衆浴場)へ行く事で、自転車で30分くらいの所に温泉があった。現在のSPAではない、当時はサウナなんて設備もない、ただ浴場があって、畳の広間に客は雑魚寝して休んでいた。

私は時々、祖父の自転車の後ろに乗っけてもらい、その温泉に連れて行かれたが、遊具も何もない所で、ただ寝るだけで、子供が楽しめる筈が無いのであった。

温泉だって、北国のそれはやたら熱くて、子供にとっては苦痛なくらいの記憶なのだが・・・・


現在の私は月に7~8回のペースでSPAに通っている。SPAと言うか、それこそ温泉だ。地下のずっと下から汲み上げている都会の温泉。

レストランも休憩所もある、マンガもある、freeのWiFiもあるし、何時間でも居られて、温泉もサウナも入れるのだからマンガ喫茶よりずっと安く、快適である。

正にこの世の楽園かも知れない。若い頃ならきっと、レストランで酒も必ず飲んだであろうが、今の私はそこそこの食事とコーヒーを楽しんで終わる。
また温泉に入って、寝る、漫画を読むの繰り返し。


温泉には酒と御馳走が付き物だが、この頻度でそれをやったらむしろ不健康になるだろう。

温泉に入った後は、心地よい疲れを感じ、ぐっすり眠れる。仕事の疲れも何も無くなる。今になって祖父の気持ちがようやく分かった。


本当の楽園と言うのは、キリスト教で言う所の、アダムとイブの居た、神が造ってくれた善き楽園なのだろう。

彼らは羞恥心も持ってないから両人裸のままだ。

そこでの暮らしは、何の制限もないくらいだったが、たった1つ「知恵の実」だけは食べてはならないと神から言われていた。「これを食べたら人は死ぬ」からである。

2人はそのルールを守って幸せに暮らしていたが、蛇(サタン)にそそのかされて、食べてしまう。

2人は、知恵がつき、善悪を知り、寿命というものも得てしまう、つまり「死」を賜わり、楽園からも追放された、恥を知り服も着なくてはならなくなった。

これこそが、人類の原罪だと云われている。

私はクリスチャンではないので、何だか納得いかない、そんなに悪い罪だったろうか?

私だけでなく、日本人の多くがそう感じているのか、

日本のキリスト教徒はずっと昔から1%より増えない(韓国は27%)。

特に私は落語ファンであり、落語は人のダメなところ、愚かしいところ、恥ずかしいところを、そのまま活き活きと描く所にその真価を発揮する芸能だから、

アダムとイブの行動は愚かしいけれど、落語的には当たり前としか言いようがない。知恵のない、従順なだけの人は神にとっては好ましいか知らぬが、人間としての可能性を捨てる事になる。

だいたい神の創りし楽園を、それほど魅力ある楽園と感じられない。よく行く温泉の方が楽しそうだ。

こんなの書いたら、神罰が下るかしら?

4/30/2024, 3:11:31 AM

高校の時、バイト先に大学生の先輩がいて、彼はウィンドサーフィンを趣味にしていた。

ウィンドサーフィンは、波と風を読まなくては出来ない、なかなか奥深い世界のようだった。

その頃、『風の谷のナウシカ』もちょうど上映されていたのかな?オープニングで腐海に侵されて滅んだ村の暗い情景を見た後、

輝くような真っ青の空に、入道雲がもくもくと広がり、そのすぐ下を、白い翼の飛行体がまっすぐに突っ切って行く、

それが、主人公ナウシカであった。彼女は風使いとも呼ばれるほど、風を読むことに長けているのである。

元来、昆虫少年であった私にとって、『風の谷のナウシカ』の舞台装置、最初から最後までウジャウジャと登場し、活躍する蟲達はたまらなく好みに合っていた、正にヨダレものである。


後年、私もよく空を飛んだ。

もちろん飛行機に乗ってだ。しかし、飛行機の窓から眺める景色は、ナウシカが見たものとそんなにも変わらないだろう。

香港には何回行ったか分からないくらいだが、飛行機で香港まで4時間くらいの所要時間だったと思う。

ところが、香港から成田までは3時間くらいで到着してしまうのであった。

本当の事は知らないが、たぶんこれは、気流に乗って帰れるので、行きよりずっと早く来れるのだろうと解釈している。たぶんそうだ。

風を利用する事によって、時間も燃料も大幅に節約出来るのだろう。

風を読むことは、大事だと思う。ウィンドサーフィンはしなくても、ナウシカのように空を飛ばなくとも、

いつでも、どこでも風は吹いている。

一流の風使いになったつもりで、周囲の風を読んでみてはどうだろうか。

4/29/2024, 2:30:33 AM

刹那とは、人が認識出来ないくらいの本当に僅かな瞬間の事である。

人間には意識があるが、それはずっと繋がっているのではなくて、実はほんの刹那のあいだ途切れている。意識がない、つまりは死んで居るのだが、

次の刹那には又、意識を取り戻すのである。

だから、自分は今までずっと連続して生きて来たと思っているけれども、本当は(仏教的には)生きて、死んでを刹那毎に繰り返しているのだ。

そんなバカなと思いますか?

けれど、そんなの当たり前じゃねえかと思って生きてる人達もいるのだ。

・・・・・ざわっ、・・・・

ざわ、ざわ、・・・・

『博徒黙示録カイジ』を読んだ事はあるだろうか?大人気の上に、既にアニメ、実写版映画にもなっているからかなりメジャーだと思うが。

この作品を、あらゆる漫画の中で1番面白いと評する人も少なくない。

カイジという青年は、これといって特長のない、そこら辺にいる普通の若者だ。頭は悪くないが、努力を何も重ねないで刹那的に生きて来て、安いギャンブルで勝ったり負けたりして日々を過ごしている。

ちょつとぼんやりしているカイジは莫大な借金を背負い、どうしようもなくなって、とうとう自分の命を賭けるような裏世界のギャンブルに身を投じる羽目になる。

しかし、窮鼠猫を噛む、火事場の馬鹿力、追い詰められたカイジは覚醒して、次々と強敵を倒し、命懸けのゲームをスレスレで勝ち続けるのである。

カイジは、確かに面白い。ギャンブルに嵌るのは圧倒的に男性が多いだろう、

賭け事を好むのは狩猟時代の名残りだろうか、本能に近いところで脳が刺激されてしまう。

征服者がエスキモーに、酒とギャンブルを与えたら、忽ち堕落して狩りをしなくなり、無気力になったという。

自分の運命を、たかがサイコロやカードやパチンコや麻雀に賭けて、

丁が出るか、半が出るか、その瞬間生死をもてあそんでいるのである。

そりゃ、ドーパミンもドバドバ出まくり、止めてくれるなおっ母さん、

ジェットコースターより急上昇、急降下、

大勝ちした時は天国だが、大負けした時も地獄というより、極楽浄土を体験したように痺れるのである。

原作者の福本 伸行は、本当にそんな体験を何度もした人であろう。

4/28/2024, 2:56:20 AM

たぶん、

生きる意味なんて考えても何もない。でも、

意味を作ろうと思えば、
いくらでも創ることが出来るだろう。

「赤毛のアン」で、アンは初めて家に向かう途中、白い花の咲くリンゴの並木道を通り、そのあまりの美しさに、感動し、しばし黙り込む程だった。

あれは何という名前の場所かとマシュウに尋ねたが、「並木道だ」との答えに、

「あそこを並木道なんて呼んじゃいけないわ。そんな名前には意味がないんですもの。 こんなのにしなくては……ええと……『歓喜の白路』はどうかしら? 詩的でとてもいい名前じゃない。」
と言う。

そもそも、マシュウ・カスバートはもう老人であり、身体がだいぶ動かなくなったので、

新しい労働力としての男の子が欲しくて孤児院に依頼したのである。

なのに、手違いで痩せっぽちで赤毛の女の子が来てしまった。

マシュウにとっては、女の子なんてぜんぜん意味がない、要らない、むしろ迷惑。

すぐに孤児院に文句を言って、取替えてもらわねば・・・

と、普通ならそんな展開も不思議はない筈なのに、マシュウはそうしなかった。

それどころか、理論家で少し気難しい妹のマリラを説得して、アンの為に何が出来るのかを、考えてやろうとした。

こうして、マシュウには(マリラにとっても)アンと名乗る(昨日まで)見知らぬ少女が、他の何よりも重要な意味を持つ存在へと変わってしまうのである。

その選択のせいで、自分の身体がどんなに辛くても、不平をこぼさず、信念を通して、マシュウは己に鞭打つように働き通した。

やがて立派に成長したアンにマシュウは満足したように言う。

「わしは1ダースの男の子よりもアンの方がいいよ。いいかい、1ダースの男の子よりもだよ」

これ以上の賛辞があろうか?

そして、その翌日、マシュウは亡くなってしまうのである。


人の一生は、儚い。

でも、マシュウの選択は愚かだと笑う人がいるだろうか?

マシュウが生きた意味はないと、誰に言えるだろうか?

アンのように、マシュウのように、生きる意味の、答えを見つけたい。



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