シュグウツキミツ

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12/23/2024, 5:32:52 AM

踏み固められた土の道を通る。背中の荷物が重く感じてきた。足も痛い。ふぅ、とため息をついて、傍らの石に座り込んだ。水筒の水はぬるくて臭いが、しかたない。一息つく。懐の兵糧丸は、今は食べどきではないかもしれない。でも疲れたしなぁ……。
ふと漂う匂いに顔を上げる。わずかに風に混じるこの匂いは、醤油かな?わざわざ風に乗せる、ということは、客寄せ、つまり店だ。団子やかな。助かった。
よっこら、と重い腰をなんとか上げて、歩みを続ける。もう足が動かないと思っていたけど、少し進めば食べ物にありつけるとなると歩けるのは不思議だ。
つくづく人間の原動力は希望だ。
団子屋で水筒に水を入れてもらえるかもしれない。

僕の仕事は諜報である。市井に紛れて人々の様子を伺い、異常はないか、危険な行動はないか、藩の方針に逆らう動きがないか、を調べる。藩の舵取りに不満を持つ者は、その思いを訴える手段を考えるだろう。いざその行動に移す前には色々な兆候がある。噂だとか集まりだとか道具を揃えるだとか。その動きをいち早く察知して報告することが任務である。農民や町民にも言い分はあるだろう。だが彼らとは違う理屈で暮らす僕らにはその思いは今ひとつわからない。そんな僕らだからこそ、非情に彼らを取り締まれるのだそうだ。
そんなもんかね。

あの匂いはやはり団子屋だった。醤油の効いた甘辛いたれが美味い。熱い茶なんて何日ぶりだろう。水筒に水も入れてくれた。
ようやく一息つける。
他の客のおしゃべりに、つい自然に耳を向けてしまう。路の険しさ、家族の愚痴、名物の批評、子供の自慢、旅籠の質、女郎の良し悪し、などなど。
故郷の作付けについての話があると、つい聞き入ってしまう。良いか悪いか、悪ければどうするつもりか、どうしようと相談しているのか。
特に気になる兆候もなかったので、そろそろ出発しようと腰を浮かしかけた瞬間、ある話が耳に入った。
この間の梅雨時に大雨が降って川が増水し、畑が流れたというのだ。このままでは作物が採れない、なのに年貢はいつも通りだ、お代官には情けがないのか、といった会話だった。
果たしてどこの話か。会話の特徴、抑揚とか単語とかを手掛かりに探る。遠江か三河か、もしくは信州伊那の南か……確か今年の梅雨は、伊那の駒ヶ根で川が氾濫したと聞いた。もしかしたら。
だが、僕の管轄は関八州だ。伊那で一揆が起ころうが、むしろ藩主にとっては好都合だろう。山を越えるが、近くの藩が弱体化するのは良いことだ。

ふう、と空を見た。
ゆずの香りがした。ふと見上げると、ゆずがたわわに実っていた。

12/16/2024, 11:54:54 PM

「ひょっとしたら、風邪をひいたのかもしれない」
僕が呟くと即座に
「んなわけないだろ」
と応える。
「だってさ、寒いよ?なんだか体が冷たくなったし」
「じゃあ俺も風邪かなぁ?」 
もう一人が尋ねるが
「だからそんな事ありえないだろ」
と応える。
先日美術館に向かってるであろう人達が
「寒い寒い」「こんなに冷えちゃって」「風邪ひいたよ」などと口々に話していた。
(体が冷えると風邪をひくのか)と思って言ってみたのだが、違ってたらしい。
「じゃあ風邪ってなに?」
「しらないよ。ニンゲンのビョウキの一つだろ」
「じゃあ俺達もかかるかもしんないねぇ」
「かからないよ、ニンゲンじゃないから」
「僕達ニンゲンじゃないの?体はそっくりだよ?」
「じゃあ俺達はなんなんだよ」
「チョウコクだよ」
僕たちは美術館の前にいる。ずっといる。朝も昼も夜もいる。暑くても寒くても暖かくても雨でも。かれこれ百年近く前にオーギュスト・ロダンという人が作った彫刻の型から、僕らは作られた。生まれたときから三人だ。膝のあたりまで落した拳を三人で突きつけている。膝を曲げ、合わせた拳に目を向ける。自然と首は項垂れる。
僕の右隣はいつも冷静だ。現実を解き、事実を重んじる。
対して左隣はいつも陽気だ。なんでも思ったことを口にしては右隣に窘められる。
僕は……僕はなにも知らない。わからない。世界のことを知りたいとは思うのだが、こうして固定されているから周りのことしかわからない。聞いたことや起こったことで図ろうとするが、よく間違えるらしい。右隣に窘められる。
世界のことを知りたいのは他の二人も同じようで、左隣は「お、鳥が止まった」「なんか落ちてきた。木ノ実かな?」「虫がぶつかった」などと、自分に起こったことを呟いている。右隣はどうしてこんなに冷静でいられるのだろう。
「君は世界をどうやって知ろうとしているの?」
と尋ねると、右隣は
「考えているのさ。思考こそが世界を知る唯一の方法だ」
と応える。
考えるにしても材料が無いことには考えられない。
「僕はどうやって世界を知ればいいのだろう……」
思わず呟くと、
「お前、気づいていないのか?お前がそうやって色々知ろうとしているから、こいつは自分に起こったことを受け止めて、それを元に俺が考えているんだ。忘れたのか?俺達は三人で一つなんだ」
ああ、そうだった。僕が関心を外に広げているから、自分に起こったことを考えられるんだった。

僕達は今も美術館の前にいる。どうか皆さん、良い鑑賞を。

12/15/2024, 11:42:24 PM

兎は雪を待っていた。近所の幼稚園児のためにそのお父さんが作った雪の兎。耳は大きな竹の葉で、目は公園のピラカンサスでできていた。鼻と口も雪を削ってできている。おかげで息ができるようになっていた。
雪は前日の夕方に振り始め、朝になる頃には止んでいた。雪が止むと途端に雲が去り、太陽が照らし始める。冬とは言え、太陽からの熱は容赦なく兎の体を溶かす。既に背中の形は崩れ始めていた。
「あ、おとしゃんの兎さん!」
兎を作ってもらった幼稚園児が駆け寄る。制服の上に暖かそうな上着を着ていた。寒さで鼻が赤い。兎を連れて登園しようとして説得され、トボトボと去っていった。
朝が過ぎ昼になると、さらに日差しは強まった。周りを覆っていた雪も溶け出し地面が顔を出し始めいた。兎の体も心做しか少し小さくなったようだ。
(ああ、これまでか)
せめてあの幼稚園児の帰りを待ちたかったが、段々体が溶けていく。
夕方が近付き、帰りの幼稚園児を迎えることはできたが、体の形は崩れ、一見して雪の山のようになっていた。
それでも兎は雪を待つ。そうすれば、あるいは元に戻れるかもしれない。
夕方になり、雲が広がってきた。日が落ちるころに降りはじめた雨は、夜になると雪に変わっていた。
しんしんと降る雪。
あれだけ待ち望んていた雪だが、兎は雨で溶けてしまっていた。
勤め先から帰る途中の父親が、兎だったものを手に取った。新しい雪を手で固め、耳だった竹の葉と目だったピラカンサスを再びつける。口と鼻も雪を削って作り上げた。
新たに作られた兎も、息をつけるようになった。
朝になれば、またあの幼稚園児に会えるだろう。それまでは、よい夜を。

雪を待つ

12/3/2024, 11:54:08 PM

ああ、この溝はもう無視できなくなってしまった。今までは辛うじてだが保たれていた日常の平穏を守るために見て見ぬふりをしていたのだが。
いや違う。守るためなんかじゃない。平穏に固執し、依存していたからだ。平穏の中から出ていく負担に耐えられなかったからだ。負担が増え、自分が不安定になることを恐れていたのだ。心がかき乱され、考えがまとまらず、感情が制御できなくなる。そうなると一層万里奈のことが忘れられなくなる。心の中の存在が大きくなってしまう。
こんな関係は、愛ではない。ただの依存だ。
万里奈は感情の起伏が激しい子である。笑う時も泣く時も怒る時も、いつもその感情のままに振る舞う。
そんな彼女に、裏表が無いと感心してしまったのだ。そこに誠実さを求めてしまったのだろう。
実際の万里奈には、誠実さなんてなかった。
相手の都合や感情にお構いなく、笑い、泣き、怒る。そして自分の思い通りの反応がないと荒れる。
僕は怯えてしまった。彼女の感情が掻き乱されないように注意する習慣ができてしまった。それが彼女への思い遣りだと自分で思い込もうとしていた。あの子は不安定だから、僕が安定させてあげなければならない、と。
だが、その歪さを、他ならぬ彼女自身が暴いてしまった。
その日僕らはバーへ向かった。僕がよく行く感じが良いバーだった。バーテンダーだけではなく、他のお客さんとも仲良くできる、癒しの場。
そこで彼女は癇癪を起こした。彼女が頼んだカクテルが、彼女の思うようなものではなかったらしい。泣き、喚き、グラスを落として割ってしまった。
他のお客や店員さんの雰囲気を壊し、なにより僕の立場がなかった。もうあの店には行けない。
ああ、万里奈は結局、僕のことなんて大事でもなんでもなかったんだ。ただただ我儘が通る相手としてしか捉えていなかったんだ。
別れを告げるのに一ヶ月もかかってしまった。僕の覚悟が決められなかった。だが、もう、限界だ。溝に気付いてしまった以上、以前と同じように接することはできない。
別れを切り出した時、万里奈は泣いていた。泣いたまま何時まで経っても泣き止まない。ああ、今までの僕ならば別れを撤回して抱きしめただろう。だが。
さよならは言わないで出ていくことにする。

11/22/2024, 1:37:12 PM

「ご夫婦ですか?」
と尋ねられて、
「「いえ、ちがいます」」
と異口同音に答えた。
とはいえ、服装も年代も夫婦と言われても違和感はない。
だが二人はあくまで仕事上のパートナーだ。
「また間違えられましたね……」
「まあ、不都合ではないわね」
こるからパーティに侵入するには、夫婦と見られる方が都合がいい。
「気合入れてね」
二人が向かう先には豪奢な屋敷があった。高級車が次々と停まり、中から綺羅びやかな衣装の男女が降りてくる。二人もそれに続く。
「すごいな、ニュースやゴシップでよく見る顔ばかりだ……」
「そりゃそうでしょ。主催者が主催者なんだから。」
偽造した招待状を入口の守衛に見せ、中に入る。屋敷の中ではパーティが始まっていた。室内楽の生演奏に、オペラ歌手の歌唱、会場は優雅な雰囲気に包まれていた。
ざわめく会場が急に暗くなった。階段の上にスポットライトが辺り、男が登場した。
仕立てのいいスーツに包まれた恰幅のいい精悍な男だった。
「あれがジョゼフ・ハワードよ」
女が囁く。いくつもの事業を成功させている経営者である。
ハワードはよく通る声で来客に告げる。
「皆様、よくおいでくださいました。さてこれよりパーティを始めます。ご用意はいかがですか」
その声を合図に、会場の照明が再び点いた。たが、先ほどとは打って変わって紫の照明。室内楽も歌手もいつの間にかいなくなっていた。
そのかわり、会場を甘い煙が漂ってきた。
「阿片ですね……」男が囁く。
早くも会場のあちこちで客が蹲り、パイプを曇らせていた。
「これで決まりですね。早く出ましょう」
そう囁いた途端、二人の後ろに黒服の男が立つ。
「少しよろしいですか」

別室に連れられた二人は体格のいい男に取り囲まれていた。
「この招待状、ニセモノですよね。あなたたちは一体」
ち、と舌打ちをして、女はバックから小型の拳銃を取り出す。男も懐から銃を取り出す。
一触即発の中、窓が外から破られた。
「用意ができた。待たせたな!」
背の高い痩せた男が叫ぶ。
男たちの注意が削がれた瞬間、二人は窓の外を翻った。
ここは3階。だがそれをものともせず、地面に着地する。それを合図に、屋敷の中に捜査官の集団が雪崩込んだ。

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