子猫がいた。街の片隅のゴミ捨て場。捨てられたのか、迷い込んだのか。
子猫はすっかり空腹だった。もう3日も水しか口にしていない。立ち上がろうにも力が出ない。ぐったりとうつ伏せていた。
そこへ、烏がやってきた。なにか餌でもないかと探しに来たのだ。烏は猫に気がついた。動かないようだとわかると、近づいていった。
このまま子猫が死ぬならば餌にもなるだろうが、今は生きている。なにより小さな子供が死にかけているのは居た堪れない。
「おい、どうしたね」
烏が尋ねると、子猫はやっと目を開けた。何かを言いそうになるが、僅かに口を開けただけだ。
「餓えているのか。このままでは、君は死ぬぞ」
荒い息の子猫は少し体を上げた。それくらいの力はまだ残っていたようだ。
とはいえ、烏は猫のことはわからない。生きている猫は自分を追い回すし、死んだ猫は餌になる。
烏は辺りを見回し、やがて飛んでいった。
烏が向かった先には年老いた猫がいた。たまに見掛けはするが、流石に話を交わしたことはなかった。老猫は歳のせいかもう烏を追い回すこともなかった。
「御老体、少しよろしいか」
烏が話し掛けると老猫は少し驚いた様子で答えた。
「これはこれは、珍しい。貴方はたまにお見かけする烏殿か。どうしましたかな」
「実はあの角を曲がった先に死にかけた子猫がいましてな。わたくしではどうにもならないのでご助言をいただきに参ったのです」
老猫は考え込んでいるようだった。
「あちらの角ですか……残念なことに、私の縄張りの外ですな。若い頃はあの辺りも私のものでしたが、すっかり老いさらばえて……」
そこまで言って、なにか気がついたようだ。
「そうだ、この道の向いの塀の上に若い猫がいます。今は彼の縄張りだ。どうにかして彼を向かわせることができれば、あるいは」
烏にとって、その提案は自分の身を危険に晒すことになる。一瞬烏は躊躇した。他の種類の生き物のために、自分の身をかける必要はあるのか?そうまでして助けてなんになる?
しかし脳裏に子猫の姿が浮かんだ。痩せ衰え鳴き声すら上げられぬほど衰弱した姿。たとえあの子猫が死んだところで、自分はその死体を食べれるのか?他の烏やハクビシンが食べる姿を平気で見ていられるのか?或いはゴミとして人間に運ばれることに耐えられるのか?
烏は顔を上げ、道路の向いの塀まで飛ぶことに決めた。
腹に力を入れる。
果たして塀の上にはまだ若い黒猫がいた。黒猫は寝ていだが、烏が側に降りると目を開けた。暫く見つめ合うが、特に烏に向かうことはないようだった。
「もうし」
烏は話しかけることにした。
黒猫は驚いた顔で烏を見つめる。
「あの角を曲がった先は貴方の縄張りと見受けましたが、いかがでしょうか」
「いかにも俺の縄張りだ。それがなにか」
「いえ、そこで子猫を見掛けましてな。大分弱っていて声も出ない様子。わたくしではどうして良いか分からないので、貴方のお知恵を拝借しようと思いまして」
黒猫は烏が示した先を見つめていた。
「そうか、まだ今日は見回っていなかった。そんなことが」
呆然とした顔のままのっそりと立ち上がり、黒猫は脇目も振らず駆けて行った。
やがてその口に子猫を咥えて戻ってきた。
「烏殿、感謝する。危うく自分の縄張りで子猫を死なすことになった。見たところもう乳離れしている様子なので、俺でもなんとかなりそうだ」
その後、烏は元気に走り回る子猫とそれを眺める黒猫を見掛けた。
心做しか、この辺りの猫に追い回されることは無くなったように思える。
一面にススキが揺れていた。夜空には三日月が輝いていた。
丑三つ時。
ススキの根元で大きな尻尾の狐が歩いていた。時折ススキの合間から尻尾が見え隠れする。
時々立ち止まっては空を見上げる。ススキの穂を枠とした星空が見える。
「この辺だと思ったんだけど」
狐が呟く。
「もう少しこっちだったかな……いやあっちかな……やっぱりこっちかな」
夜空を見上げてはウロウロと歩く。
やがて
「やあ」
と空から声がした。
狐はパッと顔を上げて、声の主を探す。
すると、上空からフクロウが飛んできた。
「一月振りです。覚えていてくれたんですね」
「勿論ですとも!」狐が駆け寄った。
一月前、まだ夏の暑さの名残があったころ、
この場所で狐はフクロウに出会った。
狐はその年に巣立ちしてまもなく、まだ餌の鼠が上手く捕れなかった。
その夜も腹を空かしてススキの野原にやってきた。ススキはやっと花を付けたばかりだった。
そこで狐はフクロウに出会った。
木の枝から地面へ迷いなく降り、そこで確実に地面の鼠を捉えていた。夜だと言うのにまるで見えているかのようだった。
狐は思わず
「あの、凄いですね、どのように捕まえたのですか」
とフクロウに駆け寄って尋ねた。
突然のことにフクロウは驚いた様子だったが、やがて
「ああ、あなたは」
と応えた。
フクロウと狐とは言葉が通じない筈である。だがこのときばかりは分かり合えた。
感慨深そうに狐の顔を眺めたあと、フクロウは話し始めた。
「そうですね、どこからお話したものか。まず、私は生きている鳥ではありません。そして捉えている鼠も生きていません。私は地上で死んだ小動物の霊を捉える役割があるのです。この鼠も、自分が死んでいるとは思わずにいたものなので、こうして捉えて死後の世界へ連れて行くのです」
狐は呆然と聴いていた。死後の世界ってなんだろう。どんなところなんだろう。
「あなたもこのままでは私が捉えなくてはならなくなります。もっともあなたは少し大きいので、別の係が迎えに来るかもしれませんが」
「では、あなたは食べられる鼠を捉えたわけではないのですね……」
落胆した狐は、余計に腹が減った気持ちがした。
しばらくフクロウが眺めた末、
「わかりました。実はあなたとは浅からぬ御縁があるのです。私にも生前の狩りの技術が残っています。特別にお教えしましょう」
狐はパッと顔を輝かせた。
「ただし、一月お待ち下さい。なんとかそれまでは生き延びて下さい」
フクロウはそう言い残して去っていった。
「いいですか、私たちは目だけで鼠を探しているわけではないのです。肝心なのは、耳です」
狐は耳を動かした。
「恐らくあなたは鼠の出す音を両耳で聞こうとしているのではないでしょうか。そうでなく、片耳ずつ交互に聞いてご覧なさい。ホラ、あちらの草の根元に鼠がいます」
狐はそっと近付いて、片耳ずつ聞こうとした。右耳を傾けて、左耳を傾けると、右耳の方が大きく聞こえるような気がした。
「方向がわかったら、ジャンプしてその場所に着地なさい。歩いて近付くと、鼠に勘付かれてしまいます」
狐は右耳が捉えた場所にジャンプした。すると、脚先に鼠を捉えた。夢中で喰らいつき、ネズミを貪った。一月の間、虫やトカゲなどを食べていたので久し振りだ。
一息ついて、狐はフクロウに礼を言った。
「ありがとうございます。お陰で鼠を食べられました。これで捉え方も分かりました」
フクロウも満足そうな様子だった。
「ですが、お願いしたとは言え、なんでこんなに良くしていただいたのでしょうか」
暫しの無言の後、フクロウが話し始めた。
「実はわたしはあなたのお父様に御恩があるのです。今年の梅雨時に、私の巣を襲おうとした蛇を、あなたのお父様が捕らえてくださったのです」
狐にとって初耳だった。
「その蛇に噛まれたことでわたくしは死んだのですが、妻と子供たちは無事でした。今年の夏に無事皆巣立ちました。
私は死後、この役目を仰せつかったのですが、あなたを見つけてお父様への御恩返しをしようと決心しました。あなたをお助けしたのはそのためです」
狐は言葉が出なかった。父がそんなことをしていたなんて。最早会うことも叶わないだろうが、狐にできることはただ一つ。
「私は、あなたに報いねばなりません。ですが、あなたが既にこの世にないとすれば、最早あなたには何もできない。せめて、私は鼠を捕り、仔をなし、無事に皆を一人前にできるようになりましょう。そのためには、あなたから教わった、この鼠捕りを上達させます」
それから幾年か経ち、ススキの野原の鼠はめっきり少なくなった。
ある若い狐が狩りをしているところを、フクロウの霊が見つけ、話しかけた。
「鼠を捕るのが上手いてますね」
若い狐は驚きながらも応えた。
「母が鼠を捕るのが上手かったのです。教えてくれたお陰で私たち子供たちも捕ることが得意となりました。なんでも恩ある方より教わったとかで、その方に報いるためにも私たちは皆一人前にならなければならないと言われて育ちました」
あの狐だろう。
細い目をしてフクロウは頷いた。
いつからだろう、私ではない別の誰かの感覚を感じることがある。
例えば、部屋の掃除をしている時に突然弾むような気持ちになったり、カフェでコーヒーを飲んでいる時に前触れもなく怒りが込み上げたり、トイレに入っているのに胸が高鳴ったり。
最初は自分がおかしくなったんじゃないかと疑った。
だけど繰り返すうち、感じる感情があまりに脈略がないので、どこかの誰かのものなんだと確信することになった。
それは誰かはわからない。
時間が経つにつれ、その感情を強く感じるようになった。弾む気持ちの中の僅かな罪悪感だとか、怒りの感情の中の相手への理解だとか、恋心の中の打算的な気持ちとか。
私の気持ちもどうやらその誰かにも伝わっているらしく、戸惑いの感覚も感じるようになった。
そうしているうちに、幸せな気持ちの中の私への優越感だとか、悲しい気持ちの中の私への縋る思いだとか、悔しさの中の私への嫉妬心だとか、そういう気持ちも感じるようになった。
ならば、私の中の貴方への優越感も依存心も嫉妬心も、貴方は感じているのね。
そう、貴方の優越感への私の嫉妬心への貴方の優越感とか、貴方の悲しみへの私の優越感への貴方の怒りだとか、あなたとわたしの依存心の安心感だとか。
お互いの感情が反響しあい、今やこの感情が貴方のものなのか私のものなのかがわからなくなっている。
今の、この、パフェが美味しくて嬉しい感情は、誰のもの?手を切って痛くてその痛みを貴方にも感じさせて嬉しいのは誰のもの?あの人に告白されて嬉しいのを感じさせて嫉妬させてるのは、誰?
私は私の人生を生きてけているの?
寝室に大蛇が出るなんて思いもしなかった。
私の寝るベッドの脇。
天井に着きそうな頭が見下ろしていた。
「まだ寝ていなかったのか」
はっきりとそう言った。
蛇なのに。
瞬きしない眼。チロチロと口から覗く紅い舌。
眠ろうとしていたのに、眠気がすっかり飛んでいった。
「あの……何か……」
と間抜けな問いしか出てこない。
それはそうだろう、こんな大蛇に見下されて、しかも喋る。
「私は君の夢を食べていたんだ。毎夜毎夜」
夢を食うのは獏ではなかったか。
「君の夢は美味でな。だが来るのが早かったようだ」
そう言われて気がついた。半年前まで悪夢に魘されては起きていたのに、この頃は夢も見ずに熟睡している。
「見ていないわけはないのだよ。私が食べているだけで」
そうか、まだ見続けていたのか、あの夢を。
暗闇の中を走る。走らなければ、後から来るものに呑み込まれる、と確信している。だが足が縺れて走れない。思うように走れないうちに、とうとう追いつかれて、頭から噛みしだかれる。
「あの、追いかけてくるのは何でしょう」
思わず聞いてしまった。
「病だよ。君も薄々感じているのだろう?」
ああ。やはりそうか。
私の、脳の中に巣食って取れない。
「このまま、私はどうなるのでしょうか」
目の前の蛇に問うてもどうにもならないことはわかっている。だが、この不安は誰にも問えない。お医者様や看護婦さんたちができる限りのことをしてくださっているのはわかってるし、友達も家族も不安を抱えながら私に明るく接してくれていることもわかっている。そこに私が私の不安を重ねてしまったら、皆が苦しむこともよくわかっている。
「恐らくは、追いつかれるだろうね。君の、その夢のように」
はっきりと断言されてしまった。やはりそうなのだ。どうなっていくかはわかっている。今のようにクリアな思考は、増えている腫瘍に侵略されて、何れかは失われていってしまう。
「その時には、私はまだあの夢を見続けるのでしょうか」
「安心し給え。そのころには、まう君は夢を見ることも無くなるよ」
それは、私が私でなくなるということか。
「ならば、その夢を見なくなったら、どうか私を食べてください」
蛇は暫く黙った後、
「ああ」
とだけ言った。
よかった。私は私のまま逝ける。
願わくは、どうか眠りにつく前に。
俺が何をしたっていうんだ!
そりゃあ、損をした客には悪いことをしたよ。だが市場の動きなんて完璧に分かるものでもないし、だいたい自分で調べもせずに、人任せで運用しようってのがそもそもの間違いなんだよ。考えても見ろよ?どう考えてもこの業種はこれからも必要とされる、つまりは固い会社なんだよ。それがまさか、経営責任者が違法薬物所持で逮捕されるなんて、誰もが予想できなかったじゃないか。その上、この会社だけでなく、そこからこの業種全体が下がるだなんて、それこそ予知能力でもない限りわかりゃしなかったよ。そうだろう?だから、この会社を勧めた俺一人に罪を被せるなんて、それがどんなに無茶な理屈か、少し考えればわかるじゃないか。
そりゃ、俺は売り抜けたよ?でもそれは偶々のこと。今のこの状況がわかったからじゃない。上る途中で少し手放すことだって、おかしなことじゃないだろう?俺だって信じてたさ。これからも上がり続けるだろうって。
ああ、この会社に知り合いはいたさ。でもそれは個人的なことだし、知り合いっつったって、一社員だ。別に経営に携わっていたわけではない。だからこそさ。今のような状況になるなんて、思いもよらなかった。あいつは羽振りが良かったよ。給料が出てるんだろうなって。そのことからも、あの会社が傾くなんて思っても見なかったさ。
まあ、そりゃ、聞いてたよ?毎朝の朝礼で、社長の挨拶が少しずつおかしくなっていたって。最初の頃はマトモだったけど、そのうち、先がわかるとか、天使が囁いたとか、神の波動がどうとかとか、宇宙の振動とか言い出したって。でも、経営は固かった。固かったんだ。
まあ、少し手放し始めたのがその頃だったけど、でも顧客の分はもっと値上がりしてからと思ったし、値上がりするだろうと確信してましたし。大体、値が上がってたら上がってたで、あのタイミングで売ってたら、なんで上がるまで待たなかったんだってイチャモンつけるだろうが。
社長の発言がおかしくても、経営がマトモなところなんてごまんとあるだろ。そこが売のポイントにはならないだろ。
自分の分は、ホラ、ちょっと金が必要だったからさ。少ししたらまた買うつもりだったんだよ。上がると信じてたし。
閻魔大王の前でもそんなことがいえるとは、図太い奴め。お前がやったことは全てわかっているんだ。会社の経営が怪しくなっているとわかっていながら、顧客から資金を集めて買わせていた。その資金だって、全部投資に使ったわけではないだろう?狩ったと見せかけて自分のものにして、下がった額を見て顧客にその金額を渡す。いかにも株価の影響だと見せかけて、その実差額は自分の懐の中だ。証拠がない?なくてもわかるさ。お前は黒縄地獄に落ちる。獄卒の鬼によって、焼けた縄を打ち付けて、その焼き色に沿って鋸引きにされる。再生したらまた繰り返す。永遠にな。