いつからだろう、私ではない別の誰かの感覚を感じることがある。
例えば、部屋の掃除をしている時に突然弾むような気持ちになったり、カフェでコーヒーを飲んでいる時に前触れもなく怒りが込み上げたり、トイレに入っているのに胸が高鳴ったり。
最初は自分がおかしくなったんじゃないかと疑った。
だけど繰り返すうち、感じる感情があまりに脈略がないので、どこかの誰かのものなんだと確信することになった。
それは誰かはわからない。
時間が経つにつれ、その感情を強く感じるようになった。弾む気持ちの中の僅かな罪悪感だとか、怒りの感情の中の相手への理解だとか、恋心の中の打算的な気持ちとか。
私の気持ちもどうやらその誰かにも伝わっているらしく、戸惑いの感覚も感じるようになった。
そうしているうちに、幸せな気持ちの中の私への優越感だとか、悲しい気持ちの中の私への縋る思いだとか、悔しさの中の私への嫉妬心だとか、そういう気持ちも感じるようになった。
ならば、私の中の貴方への優越感も依存心も嫉妬心も、貴方は感じているのね。
そう、貴方の優越感への私の嫉妬心への貴方の優越感とか、貴方の悲しみへの私の優越感への貴方の怒りだとか、あなたとわたしの依存心の安心感だとか。
お互いの感情が反響しあい、今やこの感情が貴方のものなのか私のものなのかがわからなくなっている。
今の、この、パフェが美味しくて嬉しい感情は、誰のもの?手を切って痛くてその痛みを貴方にも感じさせて嬉しいのは誰のもの?あの人に告白されて嬉しいのを感じさせて嫉妬させてるのは、誰?
私は私の人生を生きてけているの?
寝室に大蛇が出るなんて思いもしなかった。
私の寝るベッドの脇。
天井に着きそうな頭が見下ろしていた。
「まだ寝ていなかったのか」
はっきりとそう言った。
蛇なのに。
瞬きしない眼。チロチロと口から覗く紅い舌。
眠ろうとしていたのに、眠気がすっかり飛んでいった。
「あの……何か……」
と間抜けな問いしか出てこない。
それはそうだろう、こんな大蛇に見下されて、しかも喋る。
「私は君の夢を食べていたんだ。毎夜毎夜」
夢を食うのは獏ではなかったか。
「君の夢は美味でな。だが来るのが早かったようだ」
そう言われて気がついた。半年前まで悪夢に魘されては起きていたのに、この頃は夢も見ずに熟睡している。
「見ていないわけはないのだよ。私が食べているだけで」
そうか、まだ見続けていたのか、あの夢を。
暗闇の中を走る。走らなければ、後から来るものに呑み込まれる、と確信している。だが足が縺れて走れない。思うように走れないうちに、とうとう追いつかれて、頭から噛みしだかれる。
「あの、追いかけてくるのは何でしょう」
思わず聞いてしまった。
「病だよ。君も薄々感じているのだろう?」
ああ。やはりそうか。
私の、脳の中に巣食って取れない。
「このまま、私はどうなるのでしょうか」
目の前の蛇に問うてもどうにもならないことはわかっている。だが、この不安は誰にも問えない。お医者様や看護婦さんたちができる限りのことをしてくださっているのはわかってるし、友達も家族も不安を抱えながら私に明るく接してくれていることもわかっている。そこに私が私の不安を重ねてしまったら、皆が苦しむこともよくわかっている。
「恐らくは、追いつかれるだろうね。君の、その夢のように」
はっきりと断言されてしまった。やはりそうなのだ。どうなっていくかはわかっている。今のようにクリアな思考は、増えている腫瘍に侵略されて、何れかは失われていってしまう。
「その時には、私はまだあの夢を見続けるのでしょうか」
「安心し給え。そのころには、まう君は夢を見ることも無くなるよ」
それは、私が私でなくなるということか。
「ならば、その夢を見なくなったら、どうか私を食べてください」
蛇は暫く黙った後、
「ああ」
とだけ言った。
よかった。私は私のまま逝ける。
願わくは、どうか眠りにつく前に。
俺が何をしたっていうんだ!
そりゃあ、損をした客には悪いことをしたよ。だが市場の動きなんて完璧に分かるものでもないし、だいたい自分で調べもせずに、人任せで運用しようってのがそもそもの間違いなんだよ。考えても見ろよ?どう考えてもこの業種はこれからも必要とされる、つまりは固い会社なんだよ。それがまさか、経営責任者が違法薬物所持で逮捕されるなんて、誰もが予想できなかったじゃないか。その上、この会社だけでなく、そこからこの業種全体が下がるだなんて、それこそ予知能力でもない限りわかりゃしなかったよ。そうだろう?だから、この会社を勧めた俺一人に罪を被せるなんて、それがどんなに無茶な理屈か、少し考えればわかるじゃないか。
そりゃ、俺は売り抜けたよ?でもそれは偶々のこと。今のこの状況がわかったからじゃない。上る途中で少し手放すことだって、おかしなことじゃないだろう?俺だって信じてたさ。これからも上がり続けるだろうって。
ああ、この会社に知り合いはいたさ。でもそれは個人的なことだし、知り合いっつったって、一社員だ。別に経営に携わっていたわけではない。だからこそさ。今のような状況になるなんて、思いもよらなかった。あいつは羽振りが良かったよ。給料が出てるんだろうなって。そのことからも、あの会社が傾くなんて思っても見なかったさ。
まあ、そりゃ、聞いてたよ?毎朝の朝礼で、社長の挨拶が少しずつおかしくなっていたって。最初の頃はマトモだったけど、そのうち、先がわかるとか、天使が囁いたとか、神の波動がどうとかとか、宇宙の振動とか言い出したって。でも、経営は固かった。固かったんだ。
まあ、少し手放し始めたのがその頃だったけど、でも顧客の分はもっと値上がりしてからと思ったし、値上がりするだろうと確信してましたし。大体、値が上がってたら上がってたで、あのタイミングで売ってたら、なんで上がるまで待たなかったんだってイチャモンつけるだろうが。
社長の発言がおかしくても、経営がマトモなところなんてごまんとあるだろ。そこが売のポイントにはならないだろ。
自分の分は、ホラ、ちょっと金が必要だったからさ。少ししたらまた買うつもりだったんだよ。上がると信じてたし。
閻魔大王の前でもそんなことがいえるとは、図太い奴め。お前がやったことは全てわかっているんだ。会社の経営が怪しくなっているとわかっていながら、顧客から資金を集めて買わせていた。その資金だって、全部投資に使ったわけではないだろう?狩ったと見せかけて自分のものにして、下がった額を見て顧客にその金額を渡す。いかにも株価の影響だと見せかけて、その実差額は自分の懐の中だ。証拠がない?なくてもわかるさ。お前は黒縄地獄に落ちる。獄卒の鬼によって、焼けた縄を打ち付けて、その焼き色に沿って鋸引きにされる。再生したらまた繰り返す。永遠にな。
その日は嵐だった。吹き荒ぶ風が木の葉を散らし、町中のゴミまで吹き飛ばしていった。風は夜更けになっても止まなかった。
斎藤敦史は日課のランニングができずに燻っていた。特に目的があるわけではなく、ただただ走るのが好きだった。滅多矢鱈に走るのは、流石に高校生としてはいかがかとようやく気づき始めたので、堂々と走れる「ランニング」でその欲望を発散していた。
普段は歩いている。
日中走れず持て余す気持ちで夜空を眺めていると、ふと風が止んだように思えた。
一も二もなく外に飛び出し、彼はランニングを始めた。
走っているうちに、日常に感じる不安や苛立ち、後悔といったネガティブな感情が消え失せていった。かに思えた。残るは走る疲労のみ。この積み上がっていく疲労に気分を集中させていけば、日頃の鬱憤は忘れられる。
たとえ問題は解決しなくとも。
彼の向き合う問題は、彼自身ではどうしようもなものだった。そんな彼にも恋人がいて、それなりに充実した毎日、だった。走ることが好きな彼にも理解を示してくれ、馬鹿にしたりだとか忠告したりだとか、そういうこともせずに、ひたすら見守ってくれていた。
そんな彼女の引っ越しが決まってしまった。
彼女の父の転勤で、単身赴任も考えたのだが、都会地への配置転換ということで、彼女への教育的な機会が増やせる、といったぐうの音も出ない、親心満載の決断だった。
そな決断に対抗しうる反対意見など、まだ高校生の彼にも彼女にも持ち合わせるものはなかった。
引っ越しまであと2週間。二人にはとうしようもなく、時は流れていった。
河原に着いた。辺りは田んぼが広がるばかりで、民家も人気もなく真っ暗である。そこで彼は、声が枯れるまで叫んだ。
言葉ではなく、ただの雄叫び。
自分はあの子になにかしてあげられていただろうか、なにか言葉をかけられないだろうか。そんな、生木を引き裂かれるような別れが待っている彼女に、先の人生の灯火になれる言葉をかけられるほど、彼は大人ではなかった。
どれだけ叫んだろうか。彼は暗闇に何か動くものを感じた。
犬だった。犬なのか?確かに犬のように立った耳をもち、長い鼻面をして、ちらりと口から牙も覗く。
だが、立っている。二本足で立っているのだ。
ぬ、とその獣は近づいてきた。
「うるせんだわ」
至極真っ当な苦情を述べた。
いや、こんな生き物いる?犬みたいな顔と体、尻尾。だが擦り切れて入るが服は着ている。そしてなにより、自分が聞き取れる言葉を話している。
しかしその苦情はあまりにも真っ当であった。
「あの、すみません、誰もいないかと思ってて、あの」
と自分でもどういう立場かよくわからないままに平謝りをした。
獣人は、フン、と鼻を鳴らして戻っていった。
「あの、すみません、ちょっと、あなた誰なんですか」そんなことを聞いてどうするかも考えずに引き留めていた。
獣人は振り返る。
「なんだ、あんたらにはわからないだろうが、昔からいたんだよ。俺等は、お前らの言う夜行性ってやつだから、お前らとは時間が被らないんだよ。ここらは夜になると暗くなるからちょうどいいしな。」
知らなかった。真夜中にこんな生き物達が動いていたなんて。
「ここで会っちまったからには、しょうがない、話を聞いてやるよ。何があった」
斎藤敦史は話し始めた。彼女のこと、彼女が引っ越してしまうこと、見守ってくれていた彼女に自分は返せたのか、そしてギクシャクしてしまっている今のこと。
獣人は黙って聞いてくれていた。
そして
「お前、今話せないと一生後悔するぞ。なんでもいい、お前のその気持ちでもいい。話すんだ」
次の日、学校で彼女を呼び出した。昨晩の話をすると、何故だか目を輝かせていた。勿論、自分の気持ちも話したのだが、なんだかそっちはいなされた気がする。
「その人に私も会う、連れていって」
夜中、彼女を連れて河原へ向かった。
さて、向かったはいいが、どうしたらいいだろう。何よりあの獣人が今日もここにいるとは限らないのではないか。
とまごついているうちに、彼女が闇に向かって叫んだ。
「マークでしょ、わかるんだから。出ておいで!」
少しして、闇の奥が動いた。
ゴソゴソと、今日は俯いて獣人が出てきた。
「やっぱりマーク!ここにいた!」
彼女が抱きつく。
斎藤敦史には何が何だかわからない。
「あの、どういう」
「マークよ!昔家で飼ってたシェパード!中学の時に行方知れずになっちゃって、でもこんなところにいたなんて!」
俯いてひたすら撫でられる獣人。
「マーク、家に帰ろう!パパもママも、わかってくれる!」
そうして彼女は引っ越していった。獣人マークと共に。
斎藤敦史は、今日もマラソンを続ける。
「始まりはいつも」と来ると、「突然に」と無条件に続けてしまう……
仮面ライダー電王のオープニングですね。
いーじゃん、いーじゃん、すげーじゃん