どうしてこんなことになったのだろう。このままここを立ち去って、無かったことにできればまたあの日常に戻れるのではないかと一瞬望みを抱いてしまう。そうなればどれだけ助かることか。
だが。
既に目の前には死体があって、僕の両手は血に塗れている。ナイフの柄には指紋が付いているだろうし、僕の左手の傷の血だってここに残っている。彼女が来たのは他の部屋の住民の誰かが見ただろうし、何よりこの部屋は僕の部屋だ。
これで逃げても、部署の皆は彼女が僕に迫っていたのは知っていたし、科長に相談もしてしまっていた。彼女がこの場所で死んでいて、それが僕と結びつかない筈はない。
なにより、ミカが。ミカには知られなくなかった。些細なことでもすぐに傷付き何時間でも泣き出すミカに知られることが怖くて、また必死に宥めなければならないことを恐れて、彼女のことも必死に隠していた。それがどうだ。こんな形で露見してしまうとは。
彼女が悪いのだ。僕がここまでするとは思わなかったんだろう。スマホを取り上げ、ミカのアドレスを示し、電話をしろ、別れろ、さもなければ殺すと。
ナイフは彼女が持ってきた。本当に振りかざすとは思わなかった。咄嗟に庇った左腕を切り裂き出た僕の血に、彼女は一瞬躊躇した。そこからナイフを奪い、気づいた時には滅多刺しにしてしまっていた。
殺すと、言われた。だがそれは二人きりの時だった。その発言さえ証明できれば或いは、と思うけど、証拠となるものは何も無い。
過ぎた日を思うと、なんと眩しいことか。不満はあれども仕事があり、心が不安定な恋人は居て、友達も、両親も何時でも僕の帰りを歓迎してくれる。
その全てをこの手で壊してしまった。
彼女が僕に好意を寄せていたのは気づいていた。一緒に食事に誘われた、あの時にはっきりと断っていさえすれば。飲みになんて誘わなければ。そのままホテルに行きさえしなければ。
彼女の笑顔が可愛かった。何時でも明るく、なんの気遣いもしないで済むのが楽だった。あの笑顔に癒され、もっと見ていたかった。
ミカに別れを切り出すなんてできなかった。そんなことをしたら、また傷付き落ち込んで、僕に縋り付いてくる。
何とか、何とかこのまま、などと考えていた僕が愚かだった。
何時までもこのままなんて出来っこないのに。
職場のみんなに、友達に、両親に、怒られるだろう、呆れられるだろう、心配かけるだろう。
それが怖かった。
そうして逃げに逃げた結果がこの有様だ。彼女の両親や友達から、彼女を奪ってしまった。僕の人生もこれまでとは違ってしまうだろう。
これでいいのだろう?君は僕の人生に大きな傷跡を遺したのだ。
昏く振り切れた気分で、僕はスマホの番号を押した。
残暑の昼も過ぎ、太陽が西に沈まんと傾いていた。それにつれて周囲の色も明るさをなくしてゆき、目はだんだんと物の境界を見失っていった。
いよいよ空も暗くなり、空に少し残った雲に、波長の長い赤を中心とした色が映っていた。
たそがれどき。他は誰そ。彼は誰そ。
「そちらに行くと危ないよ」男の声に引き止められた。
川の土手、誰もいないはずだった。
声の方に目を向けると、丁度沈みかけた太陽の方向だった。逆光で容貌がわからない。若い男のようだが、どうか。
「蟹でも捕るの?あっちの橋桁の方が良さそうだけど」
「べつになにも……」洋子は俯いて答えていた。「なにもかも、もういいかな、って」
終わらない家事、考え続けなければならない献立、パートでは最初の話とは違う仕事もさせられていた。疲れているのに家では何もしない夫と子供が、やりきれなかった家の管理に文句を言う。洋子の疲労は察してくれない様子だった。自分の現状を伝えようにも、家族の役割を変革する過程で起こる面倒に、洋子の気力は耐えられなさそうだった。
「このまま川に入れば、楽になるかなって」
虚ろな眼差しで川を見る。2キロほど下れば海に届くこの川は、川幅が広く流れも緩やかだった。川面を魚が跳ねる。
「ふぅん、楽にはなれないと思うけど」
声をかけられたせいで、先ほどまで僅かにあった気力も失われていた。近くの大石に腰を掛ける。空は黒さを含み始めていた。
「あれ、入らないの?」なんてとぼけたことを言う。
「その気も無くなっちゃった」と呟く。
遅かれ早かれこの世を去るだろう。今回は止められてしまったけど、また気力が増えた時に誰もいなかったら、わからない。
「寿命の前に死んじゃうとさ、どうなるか知ってる?」
え、と顔を上げる。角度の下がった太陽はもう彼を照らさず、闇が落ちかけているのでやはり顔は判然としない。
「そんなこと考えたこともなかった…どうなるの?」とにかく目の前から逃れたい、その一心だった。
「漂うのさ、その辺に。誰にも気づかれずにいつまでも」
ざあ、と風が木を揺らす。昼の暑さが幻だったかと思うような冷たい風。
「自分が知ってる誰か、そうだな、例えば君の息子とかが、なにかに挫折して川に来る。でも漂う君がそれを見つけたとしても、彼は君には気付かないし、君だって何一つしてやれない」
ああ、そうか。助けてあげられないんだ。そう思うと、ふいに家に帰りたくなった。
「例えば君の夫が洗濯物を取り込まないうちに雨が降っても、君は取り込めないし」
そうだね、私がいないとあの家は滅茶苦茶になるだろう。これまで必死に維持していたあの秩序が、易易と崩壊してしまうのは悔しい。
「ありがとう、少し落ち着いた」
「それは良かった。和史くんと大和くんにも話をするといいよ。君の負担を少しでも減らすんだ」
え、なぜ夫と子供の名前が、それよりも私、この男に息子がいるなんて話をしたっけ、とハッとして顔を上げると、そこには誰もいなかった。
すっかり日が暮れて、あたりにはまだ少し明るさが残っている。彼のいたところには窪みすらない。
そうだ、あの話し方。大事な時に限って茶化すような話し方をする。覚えがある。あの日は大雨だった。
「兄さん……」洋子が呆然と呟き、やがてどっぷりと日が暮れ光が差さなくなった川面から腰をあげた。
このお題では、鬼滅の刃の愈史郎さんの
「珠世様は今日も美しい。きっと明日も美しいぞ」
が真っ先に浮かんでしまう……
最終決戦を思うと、切ないね、愈史郎さん……
茜は正義を信じていた。たとえその手を血で染めても、その先は正義へと続く道だと信じていた。だからこそ、過酷な訓練にも耐えてきたし、今も日常の鍛錬を欠かさない。どんな事態でも動じない心と、何が起こっても対応できる身体を作り上げてきた。任務の途中で何を見ようと、目前の光景に惑わされずに完遂できる。惨たらしく死んでいく人々も、その先の正義への犠牲であると確信していた。
その日の任務は組織への侵入者の排除だった。厳重である筈のセキュリティをくぐり抜け、張り巡らされた監視網をも突破していた。侵入者は一人だが、個人で行えるものではない。捕まえても背後について口を割ることはないだろう。通信手段も確保しているだろうから、既に内部の情報は送られていると考えられる。本来ならば捨て置いて、却って泳がせて網に掛けることがセオリーだ。組織の内部は移転させ、古くなった情報を利用して、背後組織の裏を突く。
それなのに、茜に出動命令が出た。背後組織の警戒も省みず、侵入者を確実に抹殺させるということだ。よほど隠したいものがあるのか。
司令される情報をもとに、侵入者に向かって茜が進む。組織の建物の奥、セキュリティで限られた職員しか乗せないエレベータで地下に降りる。この先は茜も知らないエリアだ。緊張が走る。
エレベータが着きドアが開くと、その先には大きなドアが迫っていた。予め渡されていたセキュリティキーとパスワードでドアを開ける。ご丁寧に二重ドア、それも鍵もパスワードも別のものだ。
ドアの先は、静寂に包まれた部屋だった。
茜は最初、ロボットの置き場だと思った。だが違った。小さな子供たちの群、頭にはコードが繋がっていた。
その光景に戸惑っていると、部屋の奥から怒鳴りながら向かってくる男がいた。
「由実を、娘を、なんでこんなことにした!治療だなんて、よくも騙したな!」
男の傍らには、髪を切られて白い服を着せられていた小さな子供が座っていた。無表情で、目は開いているが何も映していないようだった。男児か女児かは判然としないが、男の言う通りならば女の子なのだろう。
激昂して向かってくる者には銃を使え。ほとんど無意識に普段の教えを実行していた。血飛沫が辺りを染め、赤く染まっても子どもたちは動かなかった。
駆け付けた警備員に男の死体は運び込まれ、白衣の職員が部屋を清掃しに到達した。
茜は正義を信じていた。その過程の犠牲も正義のためだと思っていた。
本当に?
その日のうちに、グリーンメディカルファクトリーの本社移転が報道された。
掏摸なんてチャチなものじゃない。強盗なんて品がない。
僕には矜持がある。
狙うのは大富豪だ。どんなセキュリティだろうが、下調べや準備を怠らず、完璧なプランを立て、誰にも気づかれることなく侵入して盗みだす。相手は大金持ちだから、少しぐらい無くなっても気にもされない。去るときも僅かな跡も残さない。相手は盗まれたことにすら気づかれない。
盗んだものを売るのだって足がつくようなヘマはしない。どだい売る相手だって後ろ暗いんだ。こちらを検索することもない。
そんなことを続けているから、もうだいぶ稼いできた。ただ生きていくだけなら、死んだあとに一財産残せる程には稼いでいる。盗みに入る準備をしても道具にしても、資金繰りに苦労もない。あまり派手な資金運営なんて足がついて危ないからやらないけど、そもそも必要がない。
普通ならば、生きていくためだけならば、安穏としていればいいはずなのだが、僕はまだ盗みを続けている。
誰かに頼まれるわけでもない。金持ちに怒りや恨みがあるわけでもない。社会なんてどうだっていい。そもそも、盗むことだってそんなに好きなわけではないのだ。
自分でも不思議なのだが、特段の理由もなく富豪をピックアップして下調べも十分にして完璧な計画を立てて実行する。
その日もそんな盗みを行うべく屋敷に侵入していた。室外機の調子が悪いことは下調べでわかっていたから、社員証を偽造してエアコンの修理を名目に侵入した。僕に対応したのは大柄の男で、事前に入手した名簿からその男が執事であることがわかっていた。
該当の部屋に通され、調子が悪いエアコンを示され、僕は一人で作業をした。エアコンの電源にカメラを仕掛け、エアコンは完璧に直した。
あとは1週間ほどカメラを監視して、従業員が少なくなるタイミングで再度侵入するだけだ。逃走経路も確認した。
修理が終わり退散しようと廊下に出ると、少女がいた。豪奢な屋敷の造りに似つかわしくない、素朴で草臥れた生地の白いワンピース一枚を身に着けていた。髪は梳かされているがそのままで、緩くウェーブがかかって背中ぐらいまでの薄茶色をしていた。
緑の目が真っ直ぐ僕を見つめる。
瞬間駆け込んできて僕に小声で訴えた。
「私を連れて行って、この家から出して!」
面食らった僕は少女を軽く押し戻し、そのまま退散した。
1週間後、従業員の会話や動きから屋敷が手薄になるタイミングを計り、僕は再び侵入した。盗むものはもう決めている。
部屋にはあの少女がいた。
用意した大袋に彼女を入れ、誰にも気づかれることなく屋敷をあとにした。
流石に彼女がいなくなったことには気づかれただろう。
それから、僕は盗みをすることなく、彼女と暮らしている。
あんなに盗みを繰り返していたのに、ぱったりとやめてしまうとは。本当に欲しかったのは形の無いものだったのか。