テーマパークのガイドというのは長くやるものではない。決まった光景で決まった台詞を決まったタイミングで話さなければならない。客もそのことは承知の上で、決まり切った展開をただ楽しんでいる。安全で変化がなく、それでいて客に逸脱しないようにさりげなく求めることも重要だ。
ガイドになりたての頃は、仕事を覚えるのにのが精一杯で、それなりに充実していたんだと思う。だが5年も続けると仕事も覚えて新人に教えられるまでになり、多少のトラブルにも余裕で対応できる。トラブルも多少で済まないものなんて起こりようがなかった。
俺は冒険がしたかった。子供の頃から知らない場所で迷うことが好きだったし、新しいことを一つずつ理解していくことが楽しかった。
大人になって仕事をするならば冒険者ではいられないことは理解していた。だが少しでも冒険者に近いことをしたくて、この仕事に就いた。
だがどうだ、今や求められるのは決まり切った環境と人間関係の中で上手くやっていく能力だ。
こんなの冒険じゃない。
すっかり倦んでしまい、このごろせめて休憩時間は施設の外に出ている。客に見えない部分の、粗雑で始末の悪い配線などに心を休ませられるとは。
などと荒んだ気持ちでいると、急に強く風が吹いた。
帽子が煽られ、あ、と思う間もなく飛んでいってしまった。
飛んでいった先を見ると、蔦が絡まったフェンスの上に引っ掛かっている。
あれ、無くすと仕事にならないんだよな、と仕様がなくフェンスを登り始めた。
複雑に絡まった枝に手や足をかけて登っていく。
まるでジャングルジムだな、と独り言ちた。
登りきり、帽子を手にして、ふと前を見ると、眼前に山裾の紅葉が広がっていた。
職場の近くに低い山があることは流石に知ってはいたのだが、紅葉がこんなに見事だったとは、5年間気が付かなかった。
最初の頃は余裕がなかったとはいえ、ここ3年くらい、俺は何を見ていたのか。こんな近くの美しさにさえ気づけなかったことに、衝撃を受けた。
その足で辞表を出し、今は山岳ガイドをやっている。
「花畑!ちょっと待てよ」と坂本裕太の呼び声で、花畑圭介は振り返った。
「なんだよ、坂本」昇降口に向かおうとしていた花畑は訝しんだ。
花畑と坂本は、取り立てて仲の良い友人というわけではない。たまたま選択授業が重なり、週に2度ほど同じ教室で机を並べる程度だった。
「いいから来いよ」坂本は階段を上ろうと振り返り、仕方なく花畑は着いていった。
電車、逃しちゃうんだけどな、と内心で呟きながら、階段を上がる。
自分たちの学年の教室がある2階を通り越し、上級生たちの階をも通り抜けた。
この先は屋上だ。
「おい、どこ行くんだよ。屋上は鍵が閉まっていて行けないだろ」と呼びかけていると、階段の最上部に着いた。
屋上に通じる扉には鍵がかかっていた、筈だった。
その扉を坂本は難なく開いた。
え、と驚く花畑の目に広がるのは、一面の花畑。
コスモスや萩やススキといった秋の花だけでなく、百日紅やハイビスカスといった夏の花、バラや藤と言った初夏の花、椿やサザンカなどの冬の花もある。足元に咲くのはスミレや菜の花といった春の花だ。
花畑は何処までも広がり、ここが屋上だなんて一瞬忘れるくらいだった。
「どういう、ことだ」自分でも声が掠れるのがわかる。
「お前、気づかないみたいだからさ。残念なことに、俺も一緒なんだけど」
思い出した。俺は坂本の腰を掴みながら落ちたんだ。
選択授業が自習になり、俺は課題をこなしていたんだけど、坂本やその友人たちは騒いでいた。誰かが紙飛行機を飛ばし、それを受け取りながら別の誰かに投げる、という遊びをしていた。
別にいいけど、煩いな、と顔を上げると、逸れた紙飛行機を掴もうと、坂本が窓から乗り出していたところだった。バランスが崩れる。
咄嗟に坂本の腰を引いたが、俺よりも重い坂本を引き上げることなんかできなかった。
「悪かったな、巻き込んで」と顔を伏せる坂本に、「いや、いいんだ。俺、お前と死にたかった」と打ち明けた。
昼はまだ暑いが風が涼しくなってきた。日が暮れると過ごしやすい気温になる。
一人草原を歩く。背の高い穂をつけた草が茂る。
蝉に変わって、コオロギの鳴き声が辺りに響くようになった。空を見上げる。
煌々と月が照っている。明るい夜だ。
西の方に目をやると、空の色が暗くなってきているのがわかる。雲だ。風に乗って、みるみる月を覆い隠していく。
重い鉛色の雲が上空を覆っている。
額に当たるものがある。パラパラと周りの草を弾く音。降ってきた。大粒の雨。
最初は疎らだったが、どんどん体に当たるようになる。
そのうち、空が泣くような豪雨となっていった。
連続する雨粒に草々はすっかり頭をさげ、落ちてきた雨は全ての物に跳ね返り、辺りは雨飛沫で霞んでいた。
だいたい、この雨では目の前もあまり見えない。
気温も下がり、濡れた服が重く冷たく感じ始めた。当たる雨粒も痛い。
もう上も見上げられず下を向き、後頭部で雨の勢いを感じていた。
靴が濡れて、水が浸出してきた。
しばらく耐えていると、後頭部に当たる雨の勢いが減ってきたことに気づく。やがて雨粒も疎らになり、草も水滴を帯びながら頭を上げていた。
見上げると、雲が薄くなり、狭間から月が光るようになっていた。
雨が上がった。辺りはすっかりと涼しくなった。
いつの間にか鳴くのをやめていたコオロギが、再び鳴き始めた。
水を湛えてグチョグチョ言う靴で踏みしげながら、水溜りが多くなった草原を歩いて行く。
うわ、びっくりした。と、いきなり驚かれた。
なんだよ、大げさだな、来て悪いかよ。と、毒づくと、
いやいや悪かったよ。君が悪いんじゃない。ただね、今ちょっと怖いことがあってさ、なんて気になることを言う。
どういうことだよ。
実を言うとね………この前さ、ネットで知り合った女の子がいるって話をしたじゃん、その子なんだけどさ。どうも厄介な子らしくて。最初は俺の通勤先とか聞いてきて、ま、答えちゃったのが悪かったんだけどさ、職場の最寄りまで待ち構えるようになっちゃってさ。いやいやここには来ないでよ、って頼んだら、今度は通勤ルートを割り出されちゃって、帰りに駅とか電車で待ち伏せされるようになっちゃってさ。最初はまぁいっかってたまに食事したりさ、今思うとそれも悪かったんだけど。なんかそのうち俺の友達関係?女の子の友達とか同僚とかそういうの気にしだして。君に関係ないよね?って牽制してたんだけど、あんまりしつこいから帰り道変えたらさ。今度は通勤時間を割り出されちゃって、待ち構えられてさ。いやー、朝だから、家出るのも起きるのも早まるから変えたくなかったんだけど、しょうがないから通勤ルートも変えてさ。そしたら今度は家まで割り出そうとして。LINEとかでしつこく聞かれてさ。誤魔化してんだけど時間の問題かもしれないって。そんな時に突然の君の訪問。そりゃあ驚くよ。
と、説明してるところで、インターフォンが鳴る。
あの、斎藤ですけど、宮城さんのお宅ってここですよね、やっとお家がわかりましたので。
とモニターから若い女性の声がする。
まいったな、と葉月は呟いた。
図書館に籠もり、閉館時間だからと追い立てられてエントランスに出ると、豪雨だった。
戻ろうにも図書館は閉まってしまうし、司書に頼んで雨宿りさせてもらおうにも、追い立てたあの顔色を思うとそれも無理そうだった。
まさか降るとは思わず、傘の用意もない。
視界が効かないあたりを見渡すが、近くに雨宿りできそうなところも無かった。
まいったな、と再び呟き、道の向こうに確かあった電話ボックスまで、雨に濡れる覚悟を固めているところに、車がきた。
町が運営するコミュニティタクシーだ。
助かった、と乗り込む。
良かったです、あのままでは雨に佇むことになりました、と声をかけると、人の良さそうな笑顔の運転手が、大変でしたねぇ、と労ってくれた。
とりあえず、駅まで。駅ビルのショッピングセンターで雨が止むのを待って、歩いて帰ろう。
道すがら、運転手は話をした。町の交通機関のこと、道路の舗装の話、町の役員だったが退職して運転手をしているとのこと、町の観光スポット、小さな石仏の話。
この町にはあちこちに小さな石仏があるということだった。いつからあるのか、誰が造ったのか、何を祀っているのかなど、細かなことはわからない。だが地域の老人を中心に、それぞれの石仏を熱心に拝んでいるらしい。どんなご利益があるのかもよくわからない。
信心深い人が多いんですよ、と運転手はどこか自慢気だった。
まさに葉月が調べていたことだった。
もっと詳しく聞きたいが誰に聞くといいか、と尋ねたところで駅についた。
運転手は、さあて、町の教育委員会かどこかに尋ねるといいんじゃないかねぇ、と答えた。
料金を払ってバスを降りる。町の役所も閉まってる時間だ。メールか電話で尋ねて、今度は役場へ行くことになりそうだ。
糸口は見つかった。
雨はまだ降っている。