く〜、と鳥の鳴くようなか細い音に、はっと意識を引き戻される。顔を上げれば、誰そ彼と問われるような窓の外。またやったか、と形ばかりのため息を吐く。きょう俺の心を奪っていったこのA6サイズの宝石箱は、10年も待ったきらめきが詰まっていた。鏑矢弓弦の新作オカルト短編集――やっぱり良かった。最高。思春期にのめり込んだ作家の最新作を朝からぶっ通しで読めるのは、社会人ならではの愉しみのひとつだと心底思う。俺は有給を愛してる。
「浸るの終わった?」
「ん? おお、来てたのか」
背後から声をかけられ、ベッドに向き直る。人の寝床を占拠して何やら雑誌を読んでいた様子の遥は、雰囲気と同じく気だるげな視線を向けてきた。
「そのレベルって……はぁ〜あ」
「お前のステルス性能が高いんだろ」
「鍵開く音に気付けないのは不用心って言うの」
そんな風に雑っぽく吐き捨てて、ぴょんと立ち上がる。そして遥は俺の手から本を取り上げ、台所を指差した。
「そろそろご飯」
座ったままの俺をむっと見下ろす顔は、なかなかに迫力がある。小柄で華奢な印象があるものの、釣り目がちな遥の眼力は強い。幼い頃から逆らえないもののひとつで、これから先も無理なものだと思っている。
「……んん、今日は何がいい?」
「うどん」
「乾麺あったかな」
「ソフト麺買ってきた。ぐずぐずにしよ」
卵も買ってきたから、と先んじる遥は俺の思考を読むようで。ふわふわ卵のぐずぐずうどんを想像しながら、俺は鼻歌混じりで立ち上がった。
「風邪以来かもしれないな、うどん」
「ふうん」
「興味がないようで何より」
適当な会話をしながら、水とめんつゆとうどんと。まとめて放り込んだ片手鍋をコンロに置いて、ガスの元栓を開けた。それから手元のつまみを捻れば、チチチ、と短い音がして青い炎が広がる。ステンレスの鍋が汗をかいて、その汗が炎に炙られる。ちりちりと水の蒸発する音を聞きながら卵を割っていると、横から遥がひょっこりと顔を出した。
「卵、何個?」
「うどんと同じ」
「おまけして」
「好きねえ」
3つめの卵を割りながら、鍋を見つめるつむじを見る。視線を外さないまま、遥ははっきりとこう言った。
「うん、大好き」
8/4【つまらないことでも】
白いカーテンが揺れる。ふわり、靡くその動きはいつかの髪の毛に似ていた
「風が気持ちいいねえ」
水を替えたばかりの花瓶を手に、横たわる彼女へ声をかける。独り言にも似たそれは、何回目のものだったか。彼女に似たやかましい色の花々は、白の多い部屋では主張が激しい。
窓の向こうで、芽吹いたばかりの若葉が太陽のひかりを返していた。きらきら、さらさら。それは彼女が動いたら見える音と一緒で、ちくりと胸を刺す。
「……今年も、夏の準備をしなくちゃね」
白くなってしまった手を握る。伸びた前髪をそっとかき分け、額に唇を落とす。
「花火と蚊取り線香は外せないよね。きみ火薬好きだし」
薄ら漂うエタノールの香りを振り払って、瞳を閉じる。
「僕が準備してあげるなんて、特別なんだからね」
――雨の降る、音がした。
8/3【目が覚めるまでに】