【春の来ない冬】
朝日の眩しさで目が覚めた。
見慣れない部屋、見慣れない布団。
そうだ、私、家出してるんだった。
寝ぼけた頭のままでいられたらどんなに幸せだっただろうか、そんなことを思いながら一階へ降りた。
「あ、海愛ちゃんおはよ!ぐっすり眠れた?」
「はい、」
「朝ご飯もうすぐできるから、着替えておいで」
私は眠気の残る体を引きずって洗面所に向かった。
ああ、家出2日目か。
お母さんはまだ家に帰っていないだろうか。
本当ならば、この時間には朝食を作っているところなんだろうけど。
私は不思議でならなかった。
なぜ自分がこんなことをしているのか、
なぜ自分は家出をしようと思ったのか、
何の計画性も無い家出が、なぜ上手くいっているのか。
自分の身に起こっていることが不思議だった。
それも、全て自分が起こしたことなのに。
朝食を食べ終わった後、私はある人に電話をした。
流石に何とかしなければ。
もう誤魔化せないから。
「えー、本当にいいの?もう一日泊まっても良いんだよ?」
「これから大丈夫?ほら、東京って広いからさ、迷子になっちゃったり…」
槇原さん夫婦から心配されるも、私は強く言った。
「大丈夫です。
昨日から色々とありがとうございました。
本当に、本当に感謝しています。
でも、もうこれ以上迷惑はかけられないので。
…あの、何かお礼をさせてください。
こんなにお世話になったから、何かお礼をしないと気が済まないです」
これは本心だ。
これ以上お世話になってはいけない。
私は「ちょっと早めの夏休みなので旅行しにやってきた」のでは無い。
これは家出なのだ。
私は槇原さん夫婦に嘘を吐いている。
これ以上は、もう誤魔化せない。
「…そっか、寂しくなっちゃうね」
夏子さんは寂しそうに言った。
きっとこれも本心だ。
「またいつでもおいで、私たちはどこにも行かないからさ」
「また会える日を待ってるよ」
最初は敬語だった晋也さんも、今では柔和な口調になっている。
「…最後に、お願いを聞いてくれないかな?
わがままかもしれないけど。」
晋也さんは私をじっと見つめて言った。
「海愛ちゃんの歌声を、聴かせてほしいんだ」
…え?
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
3秒経ってから、脳がやっと言葉を食べ始めた。
私の歌声を、聴かせてほしい…?
「いや、やっぱり大智の子供なんだなって。
喋り方も振る舞いも、どこか似ているんだよ。
なんだか…懐かしくなっちゃって。
あれからずっと、大智の歌声を聴いたことがなかったから。
聴きたくなっちゃって。」
夏子さんも「うんうん」と頷いている。
「え…そんなの、無理ですよ…
私、そこまで上手くないし…」
しかし、晋也さんの目を見て、そんなことは言えなくなってしまった。
砂漠で水を求めるような、欠けたピースが埋まらないことを悲しむ目。
ああ、私はオトウサンの代わりに晋也さんの心を埋められる人なんだ。
私はギターを手に取った。
「えっと、上手くないんですけど、弾いてみます…」
私は息を吸った。
自分の部屋で、何回も何十回もやってきたじゃないか。
ピックがギターの弦に当たるのを感じながら、喉が確かに声を出しているのを感じながら、
私はずっと考えていた。
晋也さんは、何年も耐えてきたのだろう。
親友を失った悲しみ。
親友の最期に立ち会えなかった悲しみ。
心に穴が空いて、風が吹いて「寒い」と独りで凍えることの辛さ。
それらを消化することはできないから、ずっとモヤモヤしている。
学生時代が夏ならば、今は冬だ。
春の来ない冬。
オトウサンは先に逝ってしまって、「いかないで」って晋也さんが叫んでる。
オトウサンも冬に取り残されたままなのに。
私はずっと変なことを考えていた。
歌いながら考えて、「私はなんてヘンなことを考えているのだろう」と思うも、また考え始める。
気がつけば、歌い終わっていた。
思考に囚われすぎて、自分が歌っているという感覚を見失っていた。
次に拍手が聴こえてきた。
「すごい、すごいよ。海愛ちゃん、すごいよ!」
夏子さんは興奮しながら言った。
「こんなに素敵な歌、聴いたことない!」
一方、夏子さんの隣で晋也さんは
泣いていた。
「…やっぱり、大智にそっくりだよ。
大智が帰ってきたって、そう思ったよ…」
晋也さんは「こんな恥ずかしい姿、見せられない」と言わんばかりにゴシゴシと涙を拭いて、
「さ、行こっか。」
と鼻声で言った。
車に乗せてもらって20分。
「わあ、すご…」
東京駅が見えた。
テレビで見てたやつだ!
「東京駅、すごいよね」
晋也さんは、すっかり元の声に戻ったみたいだ。
近くのコンビニに停めてもらって、私は車を降りた。
「本当に、本当にありがとうございました!」
「また弾き語り聴かせてね」
「お互い元気で!」
「また手紙送ります!」
私たちは別れた。
槇原さん夫婦は車に乗って走り去っていった。
少しだけ寂しくて「行かないで」と思ってしまったけど。
私は私で、やるべきことを進めなくちゃいけないから。
いつかまた会えることを信じて。
私は歩き出した。
約束の場所は東京駅。
そこには、おばあちゃんが待っている。
【次なんて】
2009/07/14
今日は海愛を連れて散歩をした。
この前買った麦わら帽子を被せて、背に乗せてひまわり畑を目指した。
トウモロコシ畑とか、駄菓子屋がすごく懐かしい。
ひまわり畑で遊ぶ娘は本当に可愛らしくて、思わず写真に収めたくなって、
次はここでギターを弾いてあげる、なんて言ったり。
青空がどこまでも続いていて、太陽はずっと眩しくて。
この風景をみながら、「次なんて、いつあるのだろう」と考えてしまった。
こんなによく見える青空は最後かもしれない。
こんなに太陽が眩しく感じられるのは最後かもしれない。
次なんて、本当に来るのだろうか。
今まで半袖だったから、
長袖を着ると「覆われている感覚」が感じられて
これはこれで良いと思うのです。
なんだか冬が恋しくなるのです。
【海のギター、風の歌声】
お風呂から上がった後、晋也さんとのオトウサン巡りの旅はまた始まった。
「大学はお互い別々の所に進学して、しばらく疎遠だったんだ。
年賀状のやりとりだけになっちゃって。
だけど、『大智くんが病気になった』ってお袋から聞いて、それからお見舞いに行くようになったんだ。
最初の頃はとても病気とは思えないほど元気で、外出許可が降りたらうちの楽器店に来てくれたりしたな。
あと、病院で弾き語りのライブをしてるっていうので有名で。
だけど、晩年は本当に弱っていたみたいで、面会を拒絶された時期もあった。
それでそのまま亡くなってしまった。
ショックだったよ、友達の最期に立ち会えないなんて。
まだ『ありがとう』も伝えてないのに。」
私は黙って話を聞いた。
これは、日記にも書かれてあった。
2010/09/01
今日、ぼくとの面会をやめてもらうようにお願いした。
僕はかなり弱ってきていて、もう人に見せられるような姿ではない。
たとえ友達でも親でも家族でも、こんな姿を見せたくないないと思った。
本当にひどいことをしたと思う。
僕はひどいやつだ、そう思われても構わない。
もういっそのこと、僕のことを忘れてほしい。
全部無かったことにしてほしい。
私は最初にこの日記を読んだ時、「オトウサンはなんでこれを選んだんだろう?」と不思議だった。
面会謝絶を選ぶ人なんているのだろうか、と。
しかし、きっとオトウサンは負けず嫌いなんだと思う。
他の人に弱いところを見せたくない。
それは一種のプロ根性かもしれない。
オトウサンは決して国民的なミュージシャンでは無いし、知っている人はごく少数だと思う。
だからこそ、舐められたくなくて、「自分はこんなところで止まらない」という想いを抱えていた。
だから、どんなに大切な人の前でも弱みを見せたくなかった。
オトウサンが選んだ苦渋の決断だった。
夜9時。
私は布団を借りて寝ることにした。
私は寝る前に色々と考える癖がある。
今日も例外ではなかった。
この一日でたくさんオトウサンのことを知ることができたこと。
しかし、所詮私には「知ること」しかできなくて、それが寂しいと思ってしまう。
それでも、オトウサンの生きた証が確かに残っていることが堪らなく嬉しい。
それと、あとはお母さんのことが心配だ。
今頃、何してるかな。
恐らく今日は当直の日だ。
翌朝、もしかすると昼まで帰ってこないかもしれない。
私が家出しているなんて、知る由もないのだろう。
連絡しておくべきだろうか、
いやそれは家出じゃないでしょ。
そもそも私はお母さんの言葉にムカついて、
もう嫌になって、それで家を出たのに。
そんなことを考えているうちに瞼が重くなってきて、いつしか私は深い眠りに誘われてしまった。
私は夢の中にいる。
と、私は自覚している。
そしてここは、中山総合病院の中庭。
なんでこんなところにいるんだろう、と不思議に思い始めた時、どこからかギターの音色が聴こえてきた。
私は吸い寄せられるように歩くと、やがて人だかりが見えてきた。
子供から高齢者まで集まっていて、その中心には
「…オトウサン?」
流れるようにギターを弾くオトウサンは、本当に楽しそうだ。
聴く人もうっとりと笑顔を浮かべている。
なんだか、海みたいな音。
オトウサンはギターに合わせて歌い始めた。
歌はやがて風を起こした。
声が枯れてもどうでもいいと言わんばかりに
一生懸命歌っていた。
忘れたくない、忘れちゃいけない。
そう思っていたはずなのに。
朝、目が覚めると記憶は朧気になっていた。
【憧れ焦がれて】
「あの人に憧れて始めたんだ」
赤井さんはそう言うと、酒をグイッと飲み干した。
「憧れ、ですか?」
「俺たちが小学生の時、グラスホッパーっていうバンドが流行ってただろ?
僕はグラスホッパーが大好きだったんだよ。」
満面の笑みを浮かべながら赤井さんは言った。
僕と赤井さんは共にボカロPだ。
僕は7年前から、赤井さんは8年前からだから、赤井さんが先輩。
バンドをやっていた時期も含めると、音楽歴は10年以上にも及ぶ。
そんな大先輩に「一緒に飲まない?」と誘われ、こうして居酒屋で顔を合わせているのだ。
「グラスホッパーかあ、懐かしいなあ。」
「音楽番組には必ず出てただろ?
学校でも話のネタになってたし。
グラスホッパーが新曲出したなら、一番にCDショップに行ってたよ。
まあ、最近はサブスクでも聴けるのか。」
「グラスホッパー、何で好きだったんですか?」
「うーん、あくまで一部なんだけど、誠実なんだよね。人間性も、音楽も。
俺、いちばん印象に残ってるのが、
『今までは正直者が馬鹿を見る世界だった。
でも、これからは正直者がスターになる。』
って歌詞だよ。
あの言葉に痺れちゃってさ。
俺もこの人達みたいになろうって決めたんだよね。」
僕は他のミュージシャンの方とお話させていただく機会がよくあるが、音楽を始めた理由を訊くと「憧れて始めた」とよく返ってくる。
赤井さんも、誰かに憧れた時代があったんだなあ。
「まあ、グラスホッパーは解散しちゃったけどね。」
赤井さんはテンションを少し落として言った。
「あ…。確か、方向性の違いでしたっけ…?」
「方向性の違いだけど、噂によれば結構壮絶らしいよ。」
「え?」
「これは教えられないんだけどね。ごめん」
赤井さんは2杯目の酒を飲み始めた。
「でも、いちファンとして言うと、大きな賞を貰い始めて国民的バンドになってから、変わってしまったと思う。
売れることを意識した歌になったり、
いかに金を稼げるか考えるようになったというか。
そうしたら、いくら良い歌詞でも発言でも、
ただの綺麗事というか、適当な事言ってるように感じちゃうんだよね。
だから、解散するって聞いて驚かなかった。
そう遠くないうちに解散するだろうなって。
最後のほうはグラスホッパーにあまり興味無かった。
素直に新曲聴けなかった。
生配信の解散ライブも、実は全然見てない。」
いつも皆を喜ばせている赤井さんの、こんなに悲しそうな目を僕は初めて見た。
「ごめん、こんな暗い話で。
あと、自分から話しておいて難だけど、さっきの話は秘密にしておいてほしい。
あんなの知られちゃまずいからね。」
僕は素直に頷くことしかできなかった。
何の言葉も出てこなかった。
「じゃ、またいつか一緒に飲も!
あと、一緒に曲作ろ!」
赤井さんは大きく手を振って、夜の繁華街に消えていった。
僕はその背中を見送りながら思った。
そういえば、僕にも憧れの人がいたな。
※この物語はフィクションです