【冷却ナイフ】
小学生の時、先生に睨まれたことがある。
その先生とはほとんど話したことが無いのだけれど、
すれ違いざまに挨拶したら無視されて睨まれた。
私はドキッとした。
脳が固まって冷えるのが分かった。
それでも私は廊下を歩き続けた。
気にしている私に蓋をして歩き続けた。
後ろから「おはようございます!」という下級生の声が聞こえて、
それに続いて「おはよう」と先生が挨拶する声が聞こえたけれど。
【地の果て】
何でも高ければ良い。
そう思っていたし、そう教えられてきた。
テストの点数が高ければ褒めてもらえるし、
身長が高ければモテる。
志を高く持つことは大事だと言うし、
スペックが高ければ期待も高まる。
何でも高ければ良い。
そう思っていた。
「……」
あるアパートの1室で、俺は寝転がっていた。
大量のゴミ袋は異臭を放ち始め、そこら中に散らかった缶ビールが邪魔くさい。
ハイスペックボーイ(仮)だった俺がなぜこうなってしまったか。
俺は元からハイスペックボーイでは無かったからだ。
周りを見れば、俺より顔が良い奴、俺より成績優秀な奴、俺より要領が良くて上司に気に入ってもらえる奴、俺よりできる奴なんて山ほど居た。
俺は決して、ハイスペックではなかったのだ。
いや、或いは自分の能力が劣ってしまったからかもしれない。
どちらにしろ、他人と比べ始めたのが悪かった。
自分のことが見えてくると、やがて自らに絶望するようになった。
些細なミスが積み重なって、
些細な事で喧嘩して疎遠になって、
些細なすれ違いで嫌われて。
そんな事の繰り返しで自分は堕ちてしまった。
「……」
俺は無気力な手を振り絞ってYoutubeを開き、好きなアーティストの曲を再生した。
部屋中に歌が響き渡る。
結局、高ければ良いもんじゃなかった。
どんなに地の果てだろうが、俺は人間でいることができるのだから。
この人は、そんな歌を歌っている。
【再興】
最近、かつての感覚を取り戻し始めている。
というのも、子供の頃に面白いと思えていたものが再び面白く感じられるようになったのだ。
あの時間帯に観てたドラマ、
あの時間帯に観てたバラエティ番組、
あの頃読んでた本、
あの頃聴いてた曲。
ここ数年間、つまらないと感じていたものが再び面白いと思えるようになった。
まだまだ、大人にはなりきれていないんだな。
午後8時。
あの番組が始まる。
私はリモコンを手に取った。
子供の頃のように。
【放課後まで】
放課後の教室が好きだ。
HRが終わって、掃除が終わって、
どんどんみんなが帰っていって、
私達だけになる。
休み時間よりも給食よりも、何より一番楽しい時間だ。
放課後の教室では、今日も友達と他愛もない話を繰り広げるのだ。
「私の推しね、今日が誕生日なんだ〜!」
「え、だれだれ?」
「えーっとね、この子!」
友達が鞄から雑誌を取り出して、ある男性を指指した。
「え、カッコいい!」
「この人俳優なんだけどさ、最近めっちゃテレビに出てるんだよね〜!
今度、月9の主演やるんだってさ!」
流行りに疎い私は、その俳優がそんなに人気だと知らなかった。
流行りに疎いせいで話についていけないことも多々あるが、別に苦しくは無かった。
時計が5時を指した。
「あ、もうそろそろ帰らなきゃ」
本当はまだここにいたいけど、みんなで帰ることにした。
「明日って歴史あるっけ?」
「あるよ〜」
「うわー嫌だな―。先生の声、睡眠導入剤すぎない?」
「もはやあれは催眠術でしょ」
帰り道もみんなと笑い合う。
この時間がずっと続けばな、なんて思う。
「じゃあね〜」
分かれ道で友達と別れた。
友達の背中を見届け、私は帰路についた。
俯きながら。
「…ただいま。」
家に帰ると、今日も両親が口喧嘩をしていた。
私は音を立てないように2階に上がり、自室に籠った。
私が笑えるのは、学校にいる間だけ。
放課後まで。
【カーテンが翻れば】
「ほ、本当ですか…!」
受付の人の言葉に、私は目を輝かせた。
「はい、橋本大智さんの入院記録が残っています。」
「え、えと、主治医の先生はいらっしゃいますか?」
「少々お待ち下さい」
待つこと10分、待合室の椅子に座っていた私の元に、60代くらいの小太りの男性がやってきた。
「あなたが太智さんの娘さんですね?」
「は、はい…!娘の橋本海愛と申します。
生前、父がお世話になっていました。」
私は深々と礼をした。
「太智さんの担当医の神崎と申します」
病院内を歩きながら、神崎先生は生前のオトウサンの話をしてくれた。
「太智さんはね、中庭でギターを弾いたり、時には小児科の子供たちと楽しそうに話していましたよ。月に一回、中庭でライブをしたり…」
「え、父がそんなことを?」
「ええ。中庭でちょっとしたライブをしてくださってね。
音楽と医療は相性が良くて、患者さんの心理に影響を与えるんですよ。
いわば、音楽が活力になっているというか。
だから太智さん自身も、他の患者さんも、元気になっていたというか。
お礼を言うのはこちらかもしれませんね、ハハハッ」
そうか、オトウサンは注目を浴びたかったんだ。
いや、ただ注目されたいんじゃない。
他人を巻き込みたかったんだ。
「ここが中庭ですね。
ここは患者さんがひと息つけるような、癒しの場所でもあるんですよ。
入院していると外に出ることがありませんからね。」
私は中庭を見回した。
辺りには鮮やかな木々、そして中央には大きな木とベンチが見えた。
「おっと、ごめんなさい。
診察に行かなければ。」
「お忙しい中ありがとうございました」
「いえいえ、どうぞゆっくりしていってください。」
神崎先生は会釈をし、病棟へと消えていった。
一人残された私は大きな木の下にあるベンチに腰掛けた。
こうしてみると、とても癒される。
神崎先生の言う通り、癒しの場所だ。
ここでオトウサンのミニライブがあったなんて。
きっと、それ幸せ以外の言葉が見つからない空間だったのだろう。
ずっと景色を眺めていると、隣に年老いた女性が座った。
「お嬢ちゃん、家族のお見舞いかい?」
「あ、えっ、えっと、そうです」
本当はちょっと違うけど、焦って咄嗟に嘘をついてしまった。
「いいとこよね、ここは。
入院生活じゃ外に出られないんだもの。
ここはやっぱりいいね、お嬢ちゃんもそう思うだろ?」
「そうですね、空気がおいしいです」
「そうよね。
私、病室のカーテンが風に靡く度に
『外に出たい』って思うのよ。
だけど私は重い病気を抱えているから、もう外には出られない。
だから、ここに来れば自然に還ることができるのよ。
……そろそろ病室に戻ろうかしら。
お医者様が待っているわ」
年老いた女性は重そうに腰を上げ、杖をつきながら去っていった。
私はその背中を見ながら思った。
オトウサンの演奏は殆どの人が知らないんだ。
かつて、ここでミニライブがあったことなんて、殆どの人は知る由も無いのだ。
病院を去る前に、私は屋上へと向かった。
屋上への階段を登り扉を開けると、目の前には思いの外簡素な風景が見えた。
整備されていない道、脇に申し訳程度のベンチ。
殺風景だからなのか、私以外に誰もいなかった。
私は持っている写真と風景を照らし合わせた。
一致している。
オトウサンはここで写真を撮ったんだ。
理由は分からないけれど。
別に何かに気づいたわけでもないので写真をしまおうと思ったその時だった。
「…!」
そこに誰かが居た。
黒いカーディガンを羽織った男性。
背中を丸めてとぼとぼと歩き、やがて小さな塀の上に上がった。
そして手を広げ、空に手をかざした。
私は何だか嫌な予感がしていた。
このままでは、あの人は…
私は駆け出した。
「だめ、」
私は手を伸ばした。
あの人が消えてしまいそうで怖かった。
「やめて、消えないでっ」
私がそう叫んだ瞬間、男性が振り向いた。
オトウサンだ。
私はびっくりして、思わず立ち止まった。
写真で見たことのあるオトウサン。
そっくりだった。
私は口をぽかんと開け、たちつくしていた。
すると急に横から突風が吹いた。
思わず顔を伏せると、
そこにはもう誰もいなかった。
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2010/10/22
僕は今日、死のうと思った。
僕の病気は進行していくばかりで、ある日急に病気が治ったら、そのカーテンが少しでも翻ったならば、なんて考えていた。
だけど、もうそんなことを考えても無駄なところまで来てしまった。
だから僕は決めた。
もう死のう。
全て終わらせようって。
屋上から飛び降りて、何もかも無かったことにしようって。
あの日の歌も、ギターも、全て僕には関係なかった。
あの日の喜びは、僕にとって何の糧にもならなかった。
それで屋上に向かった。
少しだけ高い所に立って、手を広げると鳥になったような気分がして良かった。
あとは身を委ねて前に倒れるだけだった。
だけど、急に誰かに呼ばれたような気がして振り返った。
だめ、やめて、消えないで、って。
だけど、誰もいなかった。
きっと空耳、気の所為だ。
だけれど、不思議と「今日は死ぬの延期にしよう」なんて思ってしまって、それでこんな日記を書いているんだよ。