もずく

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8/4/2023, 10:49:23 AM

つまらないことでも

 ふと空腹を覚えて顔をあげる。時計を確認してみると昼食の時間から3時間程過ぎたところだった。アーカイブの整理に集中しすぎて食事を摂り損ねてしまったらしい。思い返してみれば何度か穹や三月が呼びに来たような気もするが、さて自分はそれに何と返しただろうか。自室と化した資料室の片隅にぽつん、と置かれているサンドイッチは、恐らく彼らの気遣いだろう。
 ありがたい差し入れのお陰で若干腹は満たされはしたが、どうにも物足りない。ラウンジに行けば何かしら腹に入れるものはあるだろうか、しかし半端な時間に何か食べるのも…などと考えながら整理する手をうろうろと彷徨かせる。すっかり集中力は切れてしまっていて、これではもう整理なんて出来ないだろう。気持ちを切り替えるつもりで深々と溜息を吐いて、よし、と整理を止めて立ち上がる。ラウンジで何か貰おう。穹や三月に文句を言われるだろうし、パムに小言を言われてしまうだろうが、背に腹は変えられない。
 唐突に、音もなく資料室の扉が開く。え、小さく声を漏らして扉の方を向くと、そこには驚いた顔で片手に皿を持った黒い男がいた。鍛えられた体格の良い、長い髪の、腕に包帯を巻いた男だった。
 というか刃だった。
「…パンケーキ」
 刃が片手に生クリームたっぷりのパンケーキを持って立っていた。似合わないなこいつ。
「…休憩にしたらどうだ」
 資料室に入ってきた刃は苦い顔をして、丹恒に向かって皿ごとパンケーキを押しつけながらぼそぼそと言う。星核ハンターと一応の和解、というか休戦、というか。そういったものをしてからしばらく経つが、刃と面と向かって話をするのは初めてかもしれない。しかも内容がパンケーキ。少し前までの刃と丹恒の間では考えられなかったことだ。なんだか面白くなってきてしまった。
「押しつけられたのか」
「奴等は押しが強い」
「押し負けたのか。…ついでにもう少し流される気はあるか?」
 パンケーキを受け取りながらすとん、と布団の近くに座り込んで、隣をぽんぽんと叩く。資料室には椅子なんて一つしかないので、ゆっくり話をしようと思うと床に座るしかないのだ。刃は苦虫を100匹ほど噛み潰したような、死ぬほど苦い顔をしておずおずと少し離れた場所に座る。姫子さんのコーヒーでも飲んだんだろうか。というか本当に押しに弱いな。
 ざくざくとパンケーキを切り分けて口に放り込む。疲れた脳に甘いものが沁みる。美味しい。
「…何の用だ」
「特に用があるわけではない。話でもしようかと思っただけだ」
「話?…今更、何を話せと」
「何でもいい。俺はお前のことを何も知らない」
 何せこんなに押しに弱いだなんてことも初めて知ったのだ。自分らしくない、という自覚は少しある。でも集中力なんてもうないし、パンケーキは美味しいし、丹恒の前で居心地悪そうに目を逸らすくせに移動する気なさそうな刃もいるし。頭の中でつらつらと言い訳を並べて、ぱかりと大口を開けてパンケーキごとぜんぶ飲み込む。
「つまらないことでも何でもいい。話をしよう、刃」
 休憩にしろと言ったのはお前だろう? そう言って小首を傾げると、片手で頭を軽く抑えた刃が深々と溜息を吐いて、それからぽつぽつと口を開いた。

8/3/2023, 11:58:52 AM

目が覚めるまでに

 ぱち、寒さで目が覚めた。
 連日の熱帯夜にクーラーは欠かせないが、よく冷えた部屋は丹楓には冷えすぎたらしい。タオルケットを頭まで被り、それでも寒さが和らがないので、手当たり次第に寝ぼけ眼のまま辺りを探る。思ったよりも近くで何か温かいものに当たって、よく確認もせずに縋りついた。
 自分の体温よりも少しだけ温かい何かに、両の手を添えて額をうりうりと押し付ける。ふは、と頭上から声が漏れ聞こえて、それからタオルケット越しに優しく抱きしめられた。
「甘えたか?」
「寒いんだ。さむさで起きた。まだねむい」
 だからまだ寝る。でもさむい。ぼやぼやした声で、ぐいぐい頭を押しつけながら訴える。丹楓よりも低くて柔らかな声をした男は、「じゃあこうして抱きしめていたら眠れるな?」と大きな手のひらで丹楓の頭を撫でながら言った。
「おうせい」
「おやすみ、丹楓」
 タオルケットからずぼ、と腕を出して隣に抱きつく。ぎゅう、と力を込めれば、相手からの力も少しだけ強まって、なんだかとても気分が良かった。
「わたしが、…私の、目が覚めるまでに、手をはなしていたら、おこるからな…」
「怖。寝ぼけながら脅しをかけてくるなよ」
 ふわふわとした気分で、笑いを含んだ応星の声を聞いて、それからそのまま丹楓の意識はすとん、と夢の中に落ちていった。