『明日世界がなくなるとしたら、何を願おう。』
25×30×20cmの小さな空間。
それが、この美しい魚たちの世界の全て。
そろそろ手狭になってきたこの水槽を、もう一回り大きな水槽に入れ替えようと準備してきた。水草や流木などの設置は終わったので、休みの明日に生体の入替えをしようと思ったのだが、そこでふと思ったのだ。
この魚たちにとって、水槽の入れ替えは今居る世界が無くなるようなものではないだろうか、と。
明日君の居る世界は無くなるよ、と伝えたとして。
この魚たちは何を願うだろうか。
何を願おうとも、明日世界は消え失せ。彼らは新たな世界に移されるのだが。私によって。
「ごめんね?」
君たちのためだから、許してほしい。
そう言ったところで、理解は出来ないだろうけれど。
もしかしたら、私達だって、『誰か』の作った箱庭の中で、生きているだけなのかもしれない。
『誰か』の胸先三寸で、私達の世界だって終わるのかも。君たちのためだから、なんて言いながら。
そうなったら、私が願うのはただひとつだ。
お前の世界も、終わっちまえ!
2023.05.06
「君と出逢ってから、私は…」
麗しの君。
劇場で歌う彼女に出逢い、男の世界は色を変えた。
この花は彼女に似合う。このネックレスの石は彼女の瞳と同じ色。このリボンは彼女の髪と同じ色。
麗しの女神のフィルターを通せば、世界の全てが美しく見える。
「ああ、我が女神。今日の舞台も素晴らしかった!」
女神の歌と演技に感動して泣き腫らした目で、男は楽屋で女神と相対する。
男の世界を輝かせる女神を支援することは男の喜びであり、その胸に溢れる女神への賛辞を直接伝えられる権利は何物にも代えがたいものであった。
「いつもありがとう。あなたは本当に女優としてのわたくしを愛してくださるのね」
「それはもう! 私の心をこんなにも震わせる役者はあなたの他おりません。あなたが演じるならば、たとえ道端の花役でも生き生きと魅力的に映るでしょう」
「まぁ、嬉しいわ」
女神はクスクスと笑う。
男はその美しさに目を奪われたが、背後から響くノックの音に眉尻を下げた。
「ああ、我が女神。楽しい時間は何故こんなにも早く過ぎてしまうのでしょうね」
女神を男が独り占めすることなど出来やしない。女神のパトロンは男だけではなかったし、男はその中でも支援額としては大きなものではなかった。
けれど、女神はいつも男との時間を惜しんでくれる。なんと素晴らしい人柄か。
「また、観に参ります。本当に今回の役柄も歌も素晴らしいから。どうぞ、身体に気をつけて」
「ええ、ええ。待っていますわ。あなたもどうぞ無理はなさらずに」
名残惜しくも、そっと女神の指先にキスを落とし、男は楽屋を辞した。もっと舞台に通うためにも、腰を据えて働かねばならぬと決意しながら。
男を見送り、女神は男がキスをした指先にそっと唇をあてた。
「非道い方。あなたに逢わなければ、わたくし、どんな方に触れられても苦しくなんて思いませんでしたのに」
女神の呟きは、崇拝者の耳には入らない。
次の瞬間には、女優は妖艶な笑顔を浮かべ、楽屋に入ってきたパトロンの男にしなだれかかる。
どんな役柄だろうと、演じてみせる。
女は、女優なのだから。
2023.05.05
*大地に寝転び雲が流れる…目を閉じると浮かんできたのはどんなお話?
草の青い匂いが鼻をつく。
川べりの土手では、花の香よりは青々とした草のほうが主張をしていた。
背中に草と斜面の凹凸を感じながら寝転がると、動きの早い雲が正面にある。
「っはーーーー帰りたくねぇーーーー」
小さくぼやく男の傍らには、男の所属する会社のロゴが書かれた紙袋が横たわっており、その中には営業用の資料が詰まっている。本来、飛び込み営業して相手方に渡す資料だ。つまり、男の今日の成果は芳しくないということである。
朝から客先を回りながら何の手応えもなく門前払いにつぐ門前払いで心は折れたものの
、この状態で会社に戻りたくないあまりに土手でサボっている。
「もう会社辞めようかなぁ……」
もともと営業志望ではなかったのに、なぜか入社したら「最初は全員営業やるから」などと言われて外回りをさせられ、心を折られまくっている。研究職採用なのに。
いや、ちゃんと理由は説明されているのだ。研究職とはいえ、己の作っている商品をよく知り、アピールする点と顧客が望む点を、実際に顧客とやり取りする営業を通して知るべし、と。
だが、中途とはいえ営業未経験の新人を一人で回らせるのはあまりに酷だし、それで上手いこと出来るほど器用ならば、研究費用が貰えずに前の職を追われるようなこともなかったのだ。
脳内でつらつらと愚痴と言い訳と面接で会った社長に対する暴言を並べ立てていた男だったが、目の前の晴れた空と吹き抜ける風に次第に思考が静かになっていく。
「……帰るかぁ」
営業経験は三ヶ月だけと確約されている。就業規則と就職時の契約書には営業職務について書いていないので労基にチクればいける気もするが、あと一ヶ月耐えれば望んだ研究職に戻れるのだ。
男はことなかれ主義でもあった。
以降、ストレスが溜まると土手で大の字になっている男の姿が見られるようになった。
2023.05.04
私が出会ったいくつもの物語。
楽しみであり冒険であり安らぎであり逃げ場所であったきみたち。
安全な場所で、恐怖を、怒りを、悲しみを、絶望を教えてくれたきみたち。
そして、私の中に生まれた、未だ描かれぬきみたち。
ありがとう。
そして、これからもよろしく。
2023.05.03
「優しくしないで」
「まぁ、みんな一度はやるから、気にしないで」
「うえええ優しくしないでください好きになっちゃう〜」
「好きになってもいいけど私はラブラブなダーリンが居るのでごめんね?」
「うえええええ〜〜振られた〜〜〜〜」
仕事でミスをして地の底まで落ち込んでいる後輩を誘い、休憩スペースの片隅でココアなどおごってやったのが今。
後輩は休憩スペースのテーブルにほっぺたをつけ、ぐずぐずとぐずりながら器用にココアを啜っている。器用なやつである。
「優しくしてほしくないなら今後スパルタで行きますけどー?」
「あ、うそうそ嫌です優しくしてくださいでろっでろに甘やかしてください褒められて伸びる子なんで!」
がばっと起き上がって、今度は子犬のようにきゃんきゃんと鳴いて主張してくる。
「仕方ないなー。じゃあとりあえず始末書の書き方から教えてやるかー」
「うああああ始末書書くんだああああ」
「安心しな、みんな山ほど書いてっから」
「それはそれでどうなんです?」
ココアの缶を捨てながら、二人で執務室に戻る。
何だかんだ立ち直りの早いやつである。
2023.05.02