『善悪』
「ケダマさんお待ちくださいちょっとま、あ、あー!」
私の叫びに頓着することなく、健やかに成長した巨猫は自分の体のサイズを気にすることなく棚上の狭い隙間を通っていく。そこに置かれた小物をなぎ倒して。
落下して真っ二つになった海外土産の置物は、対して気に入っても居ないからもういい。惰性で飾っていただけだ。猫が居る以上、猫が上がれる場所に置いておいた私が悪かった。いつの間に棚の上に上がれるようになっていたのかわからないが。
「ケダマさん、もうちょっと自分の体を把握して……」
棚の上から、ケダマが落っことしたものを掃除する私を見下ろしていた彼は、棚上に残っていた置物を前足でちょいちょいと押し出す。
「ケダマさんだめだよ!?」
私は素早く置物を取り上げて、ゴミ袋に入れる。どうせ他の場所に飾ることもないのでもう捨ててしまった方が早い。
ケダマさん、今のは明らかに面白がってますね? ビー玉みたいなまん丸の目がキラキラと輝き、口元が膨らんでいる。完全に遊んでますね?
私は、ありとあらゆる置物の類を撤去、または固定する事を決めた。
猫に人の善悪を説いても意味がない。たとえそれを理解しても、それに従う道理は猫にはないのだから。
2023.04.26
『流れ星に願いを』
今日は、こと座流星群の極大日らしい。
それを朝のニュースで知って、夜、なんとなくマンションの屋上庭園に上がった。
日頃星に興味があるわけでもなく、思い出といえば小学五年生の時。夏休みに行ったこども会のキャンプで、流れ星を見た。
その時隣には幼馴染がいて、二人で願い事をした。あいつは願い事を教えてくれなかったが、俺も教えなかった。
そして今日も、隣にはあいつが居る。
「ええ、なんで居るのぉ……」
「こっちのセリフなんだけど」
でかいレンズのついた一眼レフを三脚に設置していたあいつは、毛布とコーヒーのポットとおにぎりという完璧な装備を用意していた。俺はつっかけに寝間着代わりの高校のジャージ姿である。
「朝のニュースでこと座流星群のことやってたから、見えるかなーと思って来たんだけど」
「一緒か」
「写真撮るの?」
この一眼レフは、多分あいつのオヤジさんのものだ。運動会なんかで構えてるのを見た記憶がある。
「長時間露光で撮るんだよ。お前、近くでスマホとかいじるなよ」
屋上庭園は夜間は本来立入禁止なので、灯りも非常灯くらいしかついていない。幼馴染は律儀に管理人さんに許可をとったそうだ。俺は入り口の鍵が壊れてるのを知っているので何も言っていない。鍵が壊れていることも言ってない。
幼馴染はなんとキャンプ用のマットまで持ってきていたので、二人で寝転がり空を見る。
「あんま流れないね」
「こと座流星群はそんなに数多くないんだってさ」
一時間に十個くらいらしいよ、と彼は言った。なるほど、見逃しそう。
「なぁ、昔キャンプで流れ星見たの覚えてる?」
「小五の夏休みの時? 覚えてるよ」
「あの時の願い事ってさぁ、写真のこと?」
幼馴染は、写真家になりたいのだという。今は父親のカメラを借りているが、バイトして自分のカメラを買おうとしている。
だから、あの時の願い事はそれに関することじゃないかと、俺は思っていたのだ。
「違う」
「えー、マジでー?」
「写真のことは俺がやり遂げることだから、願っても仕方ない」
「やだ格好いいこと言うじゃん……」
肩パンされたけれど、俺は本当に格好いいと思ったのだ。
「え、じゃあ何お願いしたの?」
聞けば、沈黙がかえる。
「小五の時だし、もう教えてくれても良くない?」
「…………お前が言うなら、俺も言う」
まぁ、そうだよね。俺でもそう言うわ。
「俺はねー、お前とずっと一緒に居られますようにってお願いした」
「…………は?」
「あの頃、中学受験する奴とか出てきて、不安だったんだよなぁ。お前とはなればなれになっちゃうんじゃないかって」
結局、高校まで腐れ縁で、大学も絶賛腐れ縁続行中だけど。俺は嬉しかった。
俺は、こいつが好きなので。
まー、こいつは、気づいてませんけど。
「……そういうことは、星じゃなくて俺に言えよ」
「えっ」
「俺もだよ。お前と一緒に居たいって、思ってた」
友人としてだよな? 勘違いしそうになるからそういうこと言うのやめてほしい! 嬉しいけど!
「……俺もお前に言えばよかったんだよな、星じゃなくて。なぁ、俺とずっと一緒にいてくれよ」
「い、いいよ!」
「死ぬまで」
「望むところ……死ぬまで!?」
え、長くない? いいの? 俺嬉しいけど?
灯りのないこの場所では闇に慣れた目でもあいつの表情はいまいちわからなくて、少しでも知りたくて目を凝らす。
「お前の隣は俺の席だから、誰も座らせんじゃねぇぞ」
「う、うん」
「……お前ちゃんと意味わかってるか?」
「えっ?」
「お前が好きだって言ってんだよ俺は。くそ、もっと早く言っときゃよかった」
手が握られて、びっくりして体が跳ねる。驚きすぎ、と幼馴染は笑って、俺の手を握る力を強めた。
「お前も俺のこと好きだろ」
「ひゃい!?」
「来るもの拒まず去るもの追わずのお前が『ずっと一緒に居たい』なんて思うの俺くらいだからな。お前は俺のことが好き。はい復唱」
それは洗脳では!? 好きだけど!
「ま、待って、落ち着いて考えさせて。え、お前、俺のこと好きなの? いつから?」
「んー、割と初めてあった頃から」
「言ってよ!」
消え入るような声で「俺もすき……」と伝えると、彼は「やっぱ星なんかじゃなくお前に言うべきだった」と悔しそうに呟いた。
2023.04.25
極大日は22日頃らしいです。
『ルール』
ずっと希望していた研究室に入る事が出来て、よーし研究頑張っちゃうぞーと浮かれていた私ですが、只今絶賛班長に怒られ中です。
「冷蔵庫内の食品は、名前の書いてあるものは勝手に食べちゃ駄目って、初日に教わりませんでしたか?」
「教わりました……」
「なんで食べちゃったの」
「プリンに浮かれて……よく見てなくて……」
私、プリン大好きなんで……。
プリン狂が増えたなぁって、室長どういう事ですか。
ため息をついた班長は、半分ほど食べたプリンを前に小さくなっている私を見下ろした。
「ごめんね、私もこんな事で怒りたくないんだけど、プリンについてはほんと面倒くさい奴がいるから気をつけてほしい。プリン以外は、全然大丈夫なんだけど、プリンは駄目」
「え、プリンが駄目なんです? 人の食べちゃったのが駄目なんじゃなくて?」
「間違える事は誰にでもあるから、反省してもらえればいいわ。私も徹夜明けでぼーっとしてて室長のお昼ご飯と取り違えたことあるし」
「色々佳境に入るとみんな研究以外に頭働かなくなってくるからねぇ。そこら辺はほら、わざとじゃなければお互い様でね」
班長と室長はうなずき合う。
「でもプリンは駄目」
「なぜ」
「俺のプリン!!!!!!!!」
理由を尋ねようとした私の声に被さる大音声。
声の主は部屋の入口で絶望に顔を青ざめさせている先輩。
「あ、あの、すみません、私がうっかり食べちゃって」
「何故だ!!!! 俺の唯一の楽しみが!!!! こんな酷いことがあっていいのか!!!! いや、良くない!!!!」
「うるさ」
班長が顔を顰めてつぶやいている声がかろうじて聞こえる。先輩は、まるで舞台上でスポットライトを浴びているかのように大仰な身振りでプリンを私に食べられた悲しみを表現している。たぶん。
「彼、プリンさえ関わらなければいい研究者なんだけどねぇ」
しみじみと室長が言って、お茶をすする。班長と室長はもう慣れっこなのか、平然としている。いや、班長はとてもうるさがっているけども。
「しばらくプリンに対する愛とプリンを食べられない悲しみの語りが続くから、今のうちに同じの買ってきな。坂の上のケーキ屋さんのやつだから、それ」
「あ、はい」
班長が裏口を示して教えてくれたので、私は財布を持ってケーキ屋さんに急ぐ。
「相手を責めないのはえらいんだけど、声がでかいからひたすらにうるさいのよね」
私を見送ってくれた班長の言葉に、『プリンは駄目』の理由を理解した。
冷蔵庫のプリンには触るべからず。班長と室長の分も買ったプリン片手に、私は研究室のルールを心に刻みつけるのだった。
2023.04.24
『今日の心模様』
「あれ、午後雨の予報だったのに明日にずれてら。せっかく傘持ってきたのになぁ」
スマホに通知された明日の天気予報を見ながら、お弁当のミートボールを口に放り込む。
すると、隣から大きなため息。
「天気予報みたいに、人の機嫌も予報があればいいのにねぇ」
しょぼくれながらそう言ったのは、近年稀に見る不機嫌な部長に八つ当たり気味に企画にダメ出しをされた聡子だ。
今は、会社近くの公園で、二人で遅めのランチ中である。
「そうだねぇ……」
部長は普段は感情的になる事は殆ど無い人だが、本当に、本当に珍しく今日はあからさまに機嫌が悪かった。
そして、たまたま締切の近い仕事を持っていた聡子が犠牲になったのだ。
「なんか、聞いた話によるとさ、部長の娘さんに初彼氏が出来たんだって」
「え、あの部長が溺愛してる娘さん? カナちゃん、どこからそういう情報仕入れてくるの」
「いや、庶務の新人ちゃんいるでしょ、若い子。あれ、彼氏。部長にバレたって頭抱えてたから」
「うっそマジで?」
「マジマジ」
多分、彼氏がうちの会社の人間だったのもショックだったんだろうなぁ、という気もする。それにしたって、仕事には関係ないのだから弁えてほしいものである。
「あーあ、昨日の夜とかにさ。『明日の部長の機嫌は大荒れ。娘の彼氏発覚で、過去最低です。触らぬ神に祟りなし、明日は部長にはかかわらないようにしましょう』とか教えてもらえたらさ、私企画書の提出明日に回してたもん」
「誰が教えてくれるのよ」
「えー、神様?」
都合のいい神様である。
私はお弁当を食べ終わって、ランチバッグに容器と箸をしまう。
「まー、部長の機嫌予報は出来ないけどさ。聡子の機嫌ならわかるかも」
「私の?」
「そう。『今日の聡子の機嫌はしょんぼり落ち込み気味。部長に怒られて低調です。でも、仕事終わりにカナ様に黒猫亭のガトーショコラを奢ってもらって復活するでしょう』どう?」
「……復活するぅ。カナちゃん好きっ」
抱きついてくる聡子に「私のときはチーズケーキよろしく」と言えば、明るい笑顔が返ってくる。
聡子は落ち込んでいるより笑顔の方がいい。
あとで部長の所業を娘さんにチクッておこう。なんと、社内行事の時に、こんな事もあろうかと娘さんと連絡先を交換していたので。
翌日、娘さんに叱られてガチ凹みした部長が聡子に謝っていた。
うむ、人脈は各方面に作れるだけ作っておくものである。
2023.04.23
とりあえず人の弱みになりそうなところは抑えておくタイプ。
『たとえ間違いだったとしても』
「たとえ間違いだったとしても、進まねばならない時が男にはあるのだ……!」
「立ち止まる、勇気も、必、要だと思う……」
私の言葉がとぎれとぎれなのは、呼吸困難になる勢いで笑っているからである。
涙目でなんかかっこよさげなことを言った彼と私の前には、先ほど二人で作った味噌ラーメンがある。そして、彼のラーメンのその上には、こんもりと盛り上がった唐辛子の山。
何が起こったのかといえば単純で、彼がラーメンに瓶入りの七味唐辛子をかけようとしたら中蓋が外れ、中身全てが一気にラーメンに降り注いだのだ。そしてそれを見ていた私、爆笑。タイミングの悪いことに昨日新品を下ろしたばかりだった。一昨日ならば、同じことが起こっても傷は浅かったろうに。
「あー、笑った。それ、交換しよ。もったいないし」
「スミマセンアリガトウゴザイマス……」
しおしおとうなだれて、彼は自分の唐辛子ラーメンを私の方に押し出した。案ずるなかれ。彼は辛さ耐性一般人だが、私は蒙古タンメン中本の北極を完食する女である。
私のラーメンを彼に渡し、スープが真っ赤になってなんかじゃりじゃりしてるラーメンを食べる。うん、普通にイケる。
「うわぁ……」
恐れ慄く彼は、食べてもいないのにまだ涙目である。
「そんなんでよくこれ食べようと思ったね」
「う……だってもったいないし、俺がやらかした事だから君に尻拭いさせるのはどうかなって思ったから……」
私は少し笑って、味噌とは言い難い色をしたスープを飲む。啜ると流石に噎せる。
「食べ物大事にするところは好きだけどね。そんなに気負わなくていいんじゃない? 私だってこれからいーっぱい迷惑かけるし、お互い様でしょ」
「……そうかな。俺のほうが迷惑かけそう……」
「そんなことないと思うけど。まー本当にそうなったら、パステルのプリンで手を打ってあげよう」
「了解しました!」
それ以来、彼が私に謝る時はパステルのプリンが手土産の定番になった。
同じ苗字になって二日目の、お昼時の思い出。
2023.04.22
もし彼がそのまま食べてたら胃痛で寝込んでいた。(彼女は鋼鉄の胃)