『君の目を見つめると』
「そこー! 止まりなさい!」
ピピー! という前時代的な警笛の音に肩をすくめ、男は仕方なさそうに立ち止まる。
後ろからホバーボードの排気音が近づき、その本体と上に乗った人間が男の前に姿を表した。紺色の制服に身を包んだ警官だ。
「30より番号の若い地区は一般人のガードなしでの通行は禁止ですよ。許可証は?」
「お前、俺が『一般人』じゃねぇの知ってるだろうがよ」
「許可証の携帯は義務です! ほらほら早く出す!」
いま男たちが居る18地区は、1から100まで区分けされた地区の中でも外縁に近く、治安が悪い。それ故に、一般的にこの地区に訪れるためにはガードロボットや人間の護衛が必要である。そんな中を一人で歩く男に、警官は声をかけたのだ。
それは当然のようで居て、当然ではない。
なぜなら、男と警官の女は顔見知りであり、男がガードライセンスを持った守る側の人間だと知っているからである。
「お前、俺で点数稼ぐんじゃねぇよ」
「何よ、ライセンスの不携帯はれっきとした違反でしょー」
つまるところ、珍しく平和だったがために暇だったこの女警官が、仕事の実績を増やすために男に目をつけたのである。とはいえ、それが悪徳かといえばそうでもない。男にしてみれば通りすがりに猫にじゃれかかられたようなものだった。最も、彼女が自分以外にそれをしていれば、男は不機嫌になっただろうが。
「ほら、出した出した」
ツリ目がちの勝ち気な表情で、彼女は催促する。彼女としても、本当に彼がライセンスを持っていないとは思っていない。むしろ、そういうところはしっかりした男だと知っているからこそである。彼女自身は気づいて居なかったが、それは一種の甘えであった。
ぱたぱたとコートのポケットやらズボンの尻ポケットやら懐やらを探っていた男は、「ない」と呟いた。
「えっ、うそ、落としたの?」
そうなればライセンスの剥奪にまで繋がりかねない。やにわに慌てだす彼女に愉快な気持ちになりながら、「わけでもない」と男は続けた。
「どっちなのよ!」
苛ついた女の右正拳が男の左肩に吸い込まれ、結構な痛みに男は顔をしかめた。からかいすぎたか。にしても沸点が低すぎやしないか。
「お前らと同じ虹彩チップだよ」
示した左目の奥には、虹色に輝く文様が刻まれている。人間の視神経と直接接続した極小の通信デバイスの一種である。これによって、各種身分証やらクレジットやらを持ち歩かずともよくなるし、思考による他社との連絡まで出来るのである。だが、高度な医療技術が必要であり、今は警官や軍人のような国防関係者と、一部の高位ガードライセンス持ちにしか許されては居なかった。
「チップ、入れたんだ」
「やっとな。ほら、早く読み込め」
男は、自分よりも頭一つ背の低い彼女のために腰を折って視線を合わせてやる。警官も虹彩チップを入れており、公務員のみリード機能も追加されているのだ。
彼女は、顔を上げて男の目を覗き込んだ。
一瞬、その目を見つめるだけで、情報のスキャンは完了する。男は、ほんの出来心でライセンス情報に加えてある個人情報を女に渡した。それは、彼女を好ましく思っているという男の「感情」である。
「えっ!? ちょ、あの、えっ、ええ!?」
スキャンを終え、やにわに騒ぎ出した警官に、男は殊更のんびりと「ライセンスは有効だったろ?」と尋ねる。顔を熟れた林檎のように真赤にした彼女は、はくはくと口を開閉させ、男の顔と地面と、あちらこちらに視線を彷徨わせる。
「つ、次やったらセクハラでしょっぴいてやるんだからね!」
顔を赤くしたまま、彼女はホバーボードに飛び乗り、猛スピードで走り去ってしまった。あれは制限速度をオーバーしているのではなかろうか。
「……ありゃ、けっこう脈あんのかね?」
くつりと笑って、男は歩き出す。次は、古式ゆかしく言葉で伝えてみようと思いながら。
2023.04.06
『星空の下で』
「あれが夏の大三角形。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイルです。白鳥座のデネブとこと座のベガは、ある物語の主人公でもあります。知ってる人ー」
若い女性教師は、天井に映し出された人口の星空について解説する。投げかけられた教師の問いに、即席のプラネタリウムとなった教室で、幼い生徒たちがちらほらと手を上げる。
そのうちの一人を教師が指名すると、当てられた男子生徒は「七夕の織姫と彦星です」と答えた。
「正解です。星座はギリシャ神話、織姫と彦星は日本や中国のお話です。世界中で、星空と繋がった物語が生まれていることがわかりますね」
そこで、チャイムが鳴り響いた。
「今日の宿題は、世界の星にまつわる神話や物語を一つ調べてくる事! 今日やったギリシャ神話や七夕のお話でも良いですし、他の国でも構いませんよ」
教師は声を張り上げ、生徒たちはそれに返事を返しながらも三々五々に教室をあとにする。
その中で、一人の生徒が教師に質問に来た。
「先生、今は新しく星座は作られないんですか?」
教師は、少し考えて首を振った。
「そうですね。地球では、20世紀に今も伝わっている88星座が制定されて、それ以来公式な星座は増えていません」
星空の投影が解除された教室は、一面の壁が窓になっている。その窓から見える『星空』に、教師は視線を向けた。
「でも、数年前に入植が始まった火星では、火星88星座が作られているところらしいですよ」
「え、名前ダッサ……」
「そういうこと言わない」
有人の惑星間航行が可能になってから百と数十年。テラフォーミングの技術革新により、人類はようやく地球外の惑星へとその住処を広げ始めていた。
「ここから見える星から星座を作っちゃだめかな」
「いいんじゃないでしょうか? 作るのは自由です。でも、惑星上で見たときと違って、私達が動いてしまっているので、自分の位置も記録して考えたほうがいいかもしれませんね」
この教室は、太陽系外の惑星への入植を目的とする移民団の宇宙船の一室にある。この窓から見える『星空』は、日々わずかに変わって居るのだ。
「うん、気をつける」
「作ったら私にも教えてくださいね」
その後、生徒は友人たちとともに、「化け猫座」「プリン座」といった星座を作り出していく。
教師は面白がって船の航海士たちにそれを見せ、よく考えるものだと微笑ましく見守っていた。
まさか、その後数十年経って惑星間航路となったその道で、その星座たちが非公式ながら目印として語り継がれていくとは夢にも思っていないのだった。
2023.04.05
『それでいい』
「どちらがいい?」
そうきかれて、「そっちでいいよ」と何気なく答えた。
確か、ペットボトルの飲み物だとか、そんな他愛ないものだった。
特に深い考えもなく出た言葉に、彼は少しだけ寂しそうに笑った。
「君は、いつも『それ”で”いい』と言うよね」
僕は本当に何も考えずに出た言葉だったから、彼の言葉に虚を衝かれて黙り込んでしまった。
そして考える。そんな事を言っていただろうか、と。
しかし、思い当たるほどに深い意味があったわけでもなく、僕は首を傾げる他なかった。
君はそんな僕を責めるでもなく、ただ微笑む。
「ごめんね、僕が気にし過ぎなんだと思う。『それ”で”いい』って言われると、君がちゃんと欲しい物を望んでくれてるのか心配になっちゃって」
僕が譲ってばかりいるのではないかと、心配なのだと彼は言った。
とても、優しい人だった。
僕の、優柔不断故の適当な言葉すら憂える程に。
とても、優しくて、いいやつで。
そんなだから、神様に愛されてしまった。
いつも、彼の命日は雲ひとつない晴れだ。
彼の家名の彫られた御影石の前に線香を供える。安い白檀の匂いは彼には似合わなかった。
仏花もどうにも彼のイメージに合わなくて、白いマーガレットを選んだ。
灰色の石に相対して、目を閉じて両手を合わせる。祈りはしない。安らかに、だなんて。
僕を置いていきやがって。
「僕は、君とずっと一緒が良かったよ」
既に居ない彼に、届くはずもないけれど。
たった一つの望みを呟いて、僕は墓前をあとにした。
2023.04.04
白いマーガレットの花言葉:心に秘めた愛
『1つだけ』
ちら、と視線を向けたのは、乾物などの食品ストックが入った戸棚の扉。夫がほぼ開けることのない、その扉。
そこに、義母がくれたちょっとお高いクッキーの缶が隠してある。
夫が帰ってくる前に、と行儀悪く一枚失敬したらば、噛んだ瞬間のさくっとした歯ごたえとともに、口の中に入った瞬間ほろりと崩れてバターとカカオの風味が口いっぱいに広がり、後味にナッツの芳ばしさが余韻を残す。とても美味しいクッキーだった。
棚にしまったものの、美味しさが忘れられなくてもう一枚食べたい欲求が高まっていく。
……まだ夫は帰ってこない。帰ってくる前にもう一つだけ……。
こそこそと戸棚の前で缶をあけ、一枚口に運ぶ。
食べる幸福である。さすがお義母さん、食の好みが一緒。
「ん〜〜、これは確かに勝手に食べられたらめちゃくちゃ怒るかも……」
私は、昼の出来事を思い返す。
「たまたまデパートに行ったら催事をやっていてね、美味しそうだったから買ってみたのよ。そしたらとっても美味しかったから、その日のうちに追加で買いに行ったわ」
かねてからの約束で、我が家にお茶をしに来た義母は、そう言って缶入りのクッキーを二種類おみやげに持ってきてくれた。家にはまだまだあるらしい。高いんじゃないのか。
「だって、この催事以外で日本で販売しないっていうんだもの。売り切れたら来年の催事までお預けなのよ。いっぱい買うわよ」
「そうなんですね。そんな貴重なものを頂いてしまってすみません」
「いいのよ。珠子さんに美味しいもの食べてほしかったんだもの」
そう言ってころころと笑う義母は、私をとても可愛がってくれている。私も大好きなので、今日もお茶菓子はとっておきのレオニダスのオランジェットである。義母の好物だ。
「いい、珠子さん、康介に見つからないようにしなさいね」
真面目な顔で、義母は言う。
「うちの人もそうだけど、あの子絶対にこのクッキーの価値もわからず一袋250円の大袋入クッキーと同じようにひょいひょい食べ尽くすに決まってるのよ! そんな勿体ないことある!?」
聞けば、義父に勝手に一箱の半分を食べられて雷を落としたらしい。
「残りは衣装箪笥の中に隠したわ」
「そこまで……」
「だって、無くなったら買いに行けって言えるものじゃないんだもの。盗み食いするのが悪いのよ。ちゃんとお茶菓子にだそうと思ってたのに」
「……一緒に食べたほうが、美味しいですもんね」
「…………まあね」
不貞腐れたような顔で、ほんのり顔を赤くした義母が可愛らしくて、私は頬が緩むのを止められなかった。
そして義母が帰り、私はクッキーを隠したものの、欲望に抗えず戸棚の前でこそこそと貪っているわけである。
「美味しい……でもだめ、一気に食べたらもったいない……。これは少しずつ食べるのよ……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、戸棚の中にクッキー缶をしまう。
ああ、でも……。
「最後に1つだけ……」
自制心を溶かす罪な味である。
2023.04.03
『大切なもの』
君と通った小道に咲いていたたんぽぽの押し花。
厚みがあって作るのは大変だった。あの日は散歩している大きな犬に君が興奮して、撫でさせてもらって目をキラキラとさせていた。いつか犬を飼いたいと、笑っていた。
君と食べたケーキ屋さんの箱のリボン。
季節限定のシャインマスカットを使ったショートケーキが食べたいと言っていたのに、いざお店に行ってみたらタルトも食べたいと悩んでいた。一つずつ買って半分こした。
君の誕生日を祝ったレストランのショップカード。
料理はもちろん美味しかったし、お店の方が好意でサプライズに出してくれた小さなケーキに君は目を輝かせていた。僕の分も上げたらぺろりと完食していた。
君が好きな作家の新刊を買って嬉しそうにしていた本屋のしおり。
5年ぶりの新刊だとはしゃいで、平積みされた売り場のポップに感動して、店員さんに許可をもらって写真をとっていた。新刊の宣伝用のしおりは、たまたま二枚重なっていたからと僕にくれたもの。
君とお花見に行った帰りに買った桜餅の包み紙。
桜の花はきれいだったけれど、人の多さに疲れてそうそうに帰路についた。その途中、普段通らない道で見つけた和菓子屋さんで買った桜餅。持ち帰り用に綺麗な桜色の和紙に包んでくれた。今では度々買いに行くお店だ。
君と一緒に散歩した公園で拾った綺麗なもみじの葉。
近場で紅葉狩りにでも、と訪れたいつもの公園で、「どっちが綺麗な葉っぱを見つけられるか勝負!」と君が言い出して、なぜだか最後には近くで遊んでいた小学生まで巻き込んで綺麗な葉っぱを探していた。小学生たちと一緒にはしゃぐ君は子供のようで、結局勝負は有耶無耶になって、みんな自分が拾った葉っぱをお土産に帰っていった。
そんな、たくさんの小さな、ともすればゴミと言われてしまうようなものが、近所のケーキ屋さんのクッキー缶の中には入っている。
このクッキー缶も、君が買ってきて一緒に食べたもの。
そんなものまで取ってるの? って君は笑うけれど、それぞれ見ればその日のことが思い出せる。
君と出会ってから少しずつ増えていく小さな思い出は、これからも増え続けて、きっとこのクッキー缶には入り切らなくなるだろう。
僕は、その日が楽しみだ。
2023.04.02