『エイプリルフール』
「今日はエイプリルフールだね」
土曜日だというのに、年度末の仕事が納まらずに死んだ目をしながらキーボードを叩いている男にそう言うと、彼はそれに初めて気がついたようだ。
「今日そんな浮かれた日だっけ……。あー、ソシャゲのイベント……」
ぶつぶつと呟きながら、キーボードを叩く指は止まらない。可哀想に、完全な社畜の姿である。
「エイプリルフールだからね」
「うん」
「別れようか」
キーを叩く音が止まった。
彼がこちらを表情の抜けた顔で凝視している。呼吸まで止まっているんじゃなかろうか。
「嘘だよ」
「…………っぶはぁ! もおおおおおお!」
両手で顔を覆い、デスクチェアに背を預けて身悶える彼の姿は正直面白い。
私が声を出さずに笑っていると、彼は席を立ってソファに座る私に抱きついてくる。
「そういう! 心臓にくる嘘は! だめだと思います!」
「いやぁ、ごめんごめん。だってね」
ぎゅうぎゅうと痛いくらいに込められた腕の力は、彼に与えた衝撃の大きさだろう。
「エイプリルフールについた嘘は絶対に真実にならないっていうからさ」
彼は少し考えて、大きなため息を付いた。
「なんで突然そういう可愛いこと言うの」
「おや、私はいつも可愛いんだろう?」
君が毎度毎度そう言っているじゃないか、と揶揄すると、「そうだけど、今はこれ以上なんも出来ないからつらい」と恨めしげにパソコンを見やる。
「頑張っておいで。驚かせたお詫びにお昼ごはんは君の好きなもの作ってやろう」
「じゃぁオムライス。ケチャップでハートも書いて。美味しくなるおまじないもよろしく」
「……けっこう根に持ってるな君。わかった、やってあげよう。だからちゃんと仕事終わらせなさいね」
正午まであと2時間弱。
のろのろとパソコンの前に戻った彼は、仕事を終えられるか否か。
多分無理だろうな、と思いながら、私は冷蔵庫の中身を確認するため、キッチンに向かうのだった。
2023.04.01
My Heartのときのふたり
『幸せに』
私には、君を幸せにする義務がある。
そう、義務だ。君の命の終わりまで面倒を見ると決めた時から、それは私の至上命題であり、何を持ってしても達成すべき目的になった。
「ケダマちゃーん。診察室へどうぞー」
私の返事より前に、怒りに満ちた唸り声がキャリーケースの中から応える。いそいそと診察室の中に入ってキャリーケースを開けると、今度はびったりとケースの奥に張り付いて出てこない。
AHTさんと二人がかりでケダマを引きずりだして、ついでに副産物としていくつかの赤い筋を腕に貰って、何度目かの健康診断と相成った。
「うん、いい感じに体重増えてきてるね。6.3kg」
小太りでメガネの獣医師は、気の優しそうな顔でそう言いながらケダマの全身をチェックした。怪我をしていた後ろ足周りは念入りに。
「6.3kg……太り過ぎとかはないですか」
一般的にオス猫でも大きめサイズの体重である。ケダマは毛量が多いため、なかなか外見で肉付きがわからない。そしてまだ気軽に体を触らせてもらえない。念のため確認すると、獣医師は明るく否定した。
「ぜーんぜん平気。この子多分もうちょっと大きくなるね。毛並みからいっても大型種の血が入ってるし、足も大きいから」
そっかぁ……まだまだでっかくなるか。私は、手持ちのキャリーケースをリュック型のもう一回り大きいものに買い替えることを決めた。
「あ、あの、ケダマ、うちの子にすることに決めました」
「あ、ほんとに? そっかー、よかったなケダマ。……ケダマって名前はそのまま?」
「当然ですが? え、なにか思うところがお有りで?」
「いや、何もないです……」
もの言いたげな獣医師に圧をかけると、カルテに視線を落として誤魔化された。
かわいいだろうがケダマ。見た目そのままで。
「ケダマくん、野良歴長いから打ち解けるまで時間かかるかもしれないけど、根気強く頑張ってね」
「大丈夫です。最近、触っても嵐吹くだけで猫パンチは飛んでこなくなったんで」
「うん、大丈夫そうだね」
噛まれたらちゃんと人間の医者に行くように、と念を押されて、健康診断は終わった。
「健康体だって。よかったねぇ、ケダマ」
抗議に鳴き喚いていた行きと大違いで、むっすりとだまりこくったケダマに話しかける。
ケダマの体格だとそこそこ運動したほうがいいから、マンションぐらしならば上下運動ができるような家具配置にするといいと言われ、模様替えとともにキャットタワーの購入も決意した。
「ケダマ、一緒に幸せになろうね。めいっぱい、幸せにするからね」
それは祈りであり、私の負った義務であり、そして決意である。
この小さくて大きな命を、私は幸せにするのだ。
ケダマはうんともすんとも言わなかったし、家についてから怒りの運動会でけりぐるみが一つボロ雑巾になったが些細なことである。
2023.03.31
世界中のちいこき命に幸いあれ。
『何気ないふり』
ふさり、ふさり。
体の横、ソファに力なく置いた左手に、柔い毛がふれる。
ここで身動きをしてはならない。左手だけではなく、頭も動かしてはいけない。もしも身じろぎをしてしまえば、この左手を撫でる毛は、その持ち主である猫は即座に何処かにいってしまう。それを、私は過去の経験で学んでいた。
半年前に保護したこの猫は、マンションのエントランスの隅にうずくまっていた。最初はファーコートでも落ちているのかと思った。
オートロックの自動ドアの内側である。最初、どこかの部屋から逃げ出してきたのかと思ったが、よく見ればどうにも薄汚れている。猫好きの両親から生まれた生粋の猫好きである私は、素通りすることも出来ず猫を観察した。
世の中の不幸を憂うような顔で香箱を組んでいる猫は、後ろの左脚だけだらりと伸ばしていた。どうやら怪我をしているらしく、毛には固まった血もついている。
よし、病院つれていこう。
即決した。
私は一度部屋に戻ると(ゴミ出しの帰りだった)財布とブランケット、大きめの洗濯ネットを抱えて再び猫の下へ向かった。
「こんにちは、これから君を病院に連れていきます」
そう宣言して、静かに、穏やかに、かつ迅速に洗濯ネットを被せ、ブランケットでくるむ。実家に5匹いる猫たちの通院で培われた技術である。
ブランケットの中からは、盛大な唸り声と猫パンチが繰り出されている。
「ごめんねー、怖いねー、ごめんねー」
気休めに声をかけながら、最寄りの動物病院に駆け込み、治療とともに事情を話せば、獣医師は「このあたりで見たことのない子だし、肉球の硬さや毛艶から言って野良だと思う」と告げた。念のために警察や保健所やマンションの管理人に連絡をして、ケダマと名付けたこの猫は我が家の住人となった。
警戒心が強い、というよりは気位の高いケダマは、私から触ることを容易に許してはくれない。
私が撫でようとすると思い切り嵐を吹かれる。嵐を吹くのは結構な威嚇行動である。
だから、私はソファで丸まって眠るケダマの隣に「あなたに何も意識は向けていませんよー」という体で座り、たまたまおろした手がそこにいったという風を装ってケダマの直ぐ側に手を置く。
そうして、自然を装った不自然な体勢でずっと待ち続けると、今回のようにその時が訪れる事がある。
そう、尻尾である。
眠るケダマの尻尾が、ぼすぼすと私の手を叩くのだ。
ご褒美である。
最初の頃は、うっかり手を動かしたり視線をケダマに向けたりして、即座に逃げられていた。だが、今ではこうしてケダマの尻尾の毛並みを堪能することが出来るというわけである。
既にケダマの怪我は治り、硬かった肉球も柔らかくなっている。多分。触って確認は出来てないが。
飼い主から連絡が来るのではないかと、ずっとそわそわしていたこの半年。もちろん、そうなれば喜んでケダマを渡すつもりでいた。飼い猫がいなくなった悲しみは想像するに余りある。
けれど、今日で警察に拾得物の届け出をしてからちょうど半年になる。
「ケダマ、うちの子になる?」
思わずこぼれた言葉に、しまった、と思った。ケダマが行ってしまう。
けれど、ケダマはいつものように鬱陶しそうな顔をして立ち去りはしなかった。
「にゃん」
一言。
一言鳴いて、ソファから降りてキッチンの方に歩いて行った。
その、ぴんと立ったふさふさの尻尾を見送って、私は泣いた。
2023.03.30
猫との生活風景なら延々書ける。
『ハッピーエンド』
「ハッピーエンドなら、エンドマークがついた瞬間に隕石を降らせたい」と、私の好きな作家は作中で書いた。
ハッピーエンドのその先が幸せなんて、誰もわからない。だから、ハッピーが確約されているその瞬間に、すべてを終わらせたい、と。
私も今、この瞬間に隕石を降らせたい。
ライスシャワーの中、幸福に満ち溢れた笑顔で歩く二人を前に、そう思う。
けれどそれは「幸せなまま終わって欲しい」なんて願いではなく。
かといって、「幸せの絶頂から転落してほしい」なんて呪いでもなく。
ただただ、二人の……私の大切な大切な親友のルミを奪った男のに脂下がった顔を見たくないから、今この瞬間に隕石でも降ってきて私の頭に当たってくれはしないかと願っている。
この想いは、恋ではない。
彼女に向けるこの想いは、恋ではない。それは、自分でもよく考えて、結論を出した。
恋ではない。でも、愛ではある。
生まれたときから、それこそ産院で母親同士が隣の分娩台で産んだくらいに生まれたときから一緒にいた彼女は、私の友であり姉であり妹であり、そしてもうひとりの私でもあった。
彼女のことは、私が一番良くわかっている。
だから、本当に本当に不本意だけれど、あの男が彼女を幸せにするだろう事もわかる。だって、あの子は彼と一緒ならば幸せなのだ。それが、わかってしまったから。
私は、泣いた。そりゃぁもう、子供のように泣いた。
彼女は、ずっとずっと、私の背中を撫でてくれた。
彼女のことを一番わかっているのが私なら、私のことを一番わかっているのも彼女なのだ。私がどうして泣いているのか、彼女はわかっていた。
「クミちゃんが結婚するときは、私も大泣きするんだろうなぁ」
そんなふうにつぶやきながら、私の背を撫で続けた。
彼女のウェディングドレスは私が選んだ。そうしてほしいと彼女が言ったから。
今日、教会の十字架の前に立った彼女はとてもとてもきれいで、私が選んだドレスがよく似合っていた。私はまた泣いた。今も泣いている。
「クミちゃん、私、今隕石が落ちてきそうなくらい幸せ」
幸せな泣き顔をしたルミは、ブーケの影でこっそりと私に囁いた。
隣の男は不思議そうな顔をしているけれど、同じことを考えていた私にはわかる。
「まだまだ、エンドマークなんてつけさせないよ」
ここはまだ、ハッピーエンドじゃない。今はまだ途中の途中で、ルミはもっともっと幸せになるんだから。
だからやっぱり、隕石にはちょっとまっててほしい。
幸せなルミの隣には、この男だけじゃなく、私だって必要なんだから。
2023.03.29
ちょっととっ散らかりました。
『見つめられると』
「…………………………………」
彼女はそっと鍋の蓋を閉めた。
「あれ、どうしたの?」
「いや……今日ってさ、魚、一人一尾?」
台所に入ってきた母に、彼女はそう尋ねる。彼女が覗いた鍋の中には、鰯の生姜煮が敷き詰められていた。
「んー、一人2尾くらいはあるけど。……なんで?」
逡巡した後に顔をしかめた彼女は、絞り出すように答えた。
「頭、無理……」
「はぁー? あんたそんな繊細だった?」
「だってこっち見てるじゃん! 見てるじゃん!」
これから食べるものに見られながら美味しく食べられるほど、自分は図太くないのだと彼女は訴える。
彼女を呆れた顔で見ていた母は、それでも「あんたの分は頭とってあげるわよ……」と約束してくれた。
憂いのなくなった夕飯は大変に美味しかった。
2023.03.28