本物の流れ星なんて見たことがない。一応テレビで流星群なるものは見たことがあったが、それだけだった。画面越し、早送りの絶景はとても現実味のあるもので無く、フィクションのように遠いものに思われた。
多くの人と同様に、私もまたあちこち光の満ちた町で育った。そして、あの星々を見に行こうと思い立つほどの好奇心も無かった。静かな空間、綺麗な空気、そして頭上には溢れ落ちそうなほどの星々......そんな時間を過ごしたく無いとは思わなかったが、わざわざ労力を割く程の価値は見出せなかった。
ある日の夜のことだった。私はいつものように塾から帰る送迎バスに乗り込み、なんとなく外を見つめていた。ざあざあと雨が降っていた。乗る人が少ないからか、ほとんど静寂に近い空間だった。退屈だが今思うとそれなりに充実した時間ではあった。
静かな空間で目に入るのは窓に叩きつけられた雨粒だけ。その粒たちは車体が纏う風圧に耐えかねて、すぐさま斜め下に尾を引き流れていく。
それが軽く数十ほど、同時に発生している。街灯や信号、店舗の様々な光に照らされ輝いている。新しく落ちてきた滴と車窓を走り抜け消え去る滴が無数に生成される。それが繰り返されている。
これは流れ星だ。いや、ほとんど流星群だ。そう私は直感した。連想ゲームの隙すらなく、私は確信した。現代都市の流星は雨天にあったのだ。
しかしそうはいっても、やはり願うなら流れ星に、というのが人情だ。遠く遠くの流星をいつか見たいと願いながら、今夜も私はただ雨粒を眺めている。
私は今日、少しだけ憂鬱だった。面倒な授業も課題も無い楽な一日になるはずだったのに、ザーザーと降り頻る雨が全てを台無しにしたのだ。
いや、雨が嫌いというと語弊がある。どちらかと言うと私が嫌いなのは、雨で濡れそぼった靴や鞄で清潔で有るべき床が汚らしくなることだ。雨の日の床はただ濡れているだけでなく、日頃目立たない細かなゴミや、靴についてきたのであろうゴミがうっすらと浮かび上がっているのが大変不愉快だ。
また、交通機関、特にバスの中はより悲惨だ。床の惨状は言うまでもなく、ほんのり湿った人々と狭い空間でみっちりおしあうことになるのだから。
しかし、雨天にも褒めるべきところはある。その中でも特筆すべきは、その内省を促すようなしっとりとした空気感だろう。雨が降ると、意識まで自然と内面に向かう。カラッとした晴天の下では決して考えないような物思いに心置きなく耽ることができるのは間違い無く雨の持つ湿り気のお陰だろう。
しかし、悲しいことに、雨だろうと変わらず行くべきところに行き、晴れの日と変わらぬ仕事を求められる現代社会では、そのような物思いになんて耽る余裕も無い。雨天の内省を奪われた人々。私はそれ故に、こんな素敵な空気もろくに吸わず、ため息を吐いたのだ。