宮沢 碧

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6/6/2023, 10:58:32 AM

『私の梅干し』

宮沢 碧

「あー、それ!それは動かさないで。いいの、いいの、そのままで!その代わりこれお願いできるかしら」
私は新しく入ったバイトさんに指示をする。

 私たちは今日、引っ越しをする。母がカフェを始めてみたいと言うのでお店を新しくするのだ。何代も前から使っていたお店、前田煎餅店はこうしてまもなく伽藍堂になって行き、物を置いていて周りと色の変わってしまった壁や床を私はそっと触って歩いた。飴色に変わった床や棚、おじいちゃんが若かった頃によくタバコを吸っていたと言う窓。瓶がたくさん並んでいたカウンター。たまにお客さんまで入っちゃう掘り炬燵。
「ありがとうね」
からっぽで冷たくなったようなでも、まだほかほかの温もりのするような、まるで起きたての布団のようなぬくもりのする部屋に声をかける。引越しといっても通り2つ離れたところで、まぁ、別にここを売ったり壊したりする訳でもないのだけれども。

「あとはこの荷物だけですね。どこ、持ってきますか?」
私の足元にある大きな段ボールを指差して、焼き担当の職人、源二郎さんが話しかける。
「じゃぁ、私の助手席にお願い。重いので気をつけて下さい」
「わかりやした。おっ、本当だ、重い。そしたらあっしはこれでトラック出しちゃいますね。車で先にお店向かいます」
「ありがとう、そうして下さい。私もすぐ向かうから」
天地無用と書いてある箱を持って源二郎さんは店を出る。
 
 カフェをオープンさせるのは初めてだし、本格的に店を継ぐことになるのはドキドキする。でもこうして私よりもずっと長い間この店で働いてくれているベテランの職人さんも辞めることなくついて来てくれる。新しいバイトさんも入る。初めこそみんなと同じ東京のオフィスワーカーみたいなりたくてどこか気もそぞろに働いていたけれど、これからは違う。母がとは言え、新しいことを始める。やっと自分の中でもワクワクする気がする。何より調べたり、自分の意見を聞かれたり自分が必要とされていることが嬉しくて自分から動こうと言う気が起きて来ていた。

 戸締りをして私は車に乗り込む。シートベルトをする時、助手席の先程運んでもらった段ボールを見て心が弾む。天地無用。中身は私の漬け始めた梅干しだ。今年、私は内緒で梅干しを漬けたのだ。おばあちゃんが毎年の習わしのように漬けていた梅干しのように。この家に生まれてるのだから今更な言い方だが、実のところ梅を漬けるのはまるで『秘伝のタレ』のような気がしてこの家にすっかり馴染んでしまったようで伝統をすっかり継承してしまったようで気が進まず、今まですることができなかった。それを今年はふとやってみようと思えたのだ。勿論昔教えてもらったおばあちゃんのレシピで。心とは不思議なものだ。

 車をゆっくり出す。さぁ、新しい始まりだ。この梅干しでお店に働いている人に賄いを出す。そしていつかは梅ざらめの梅に使えるような家族も職人さんにも認めてもらえるような梅を漬ける。お客さんに喜んでもらう。それが今の私の夢だ。これはまだ誰にも言えない秘密。

 カフェ しだれふじ、前田煎餅店は一週間後にオープンする。


2023/06/05

お題 誰にも言えない秘密

6/4/2023, 12:49:46 PM

『bottleneck』

宮沢 碧


まただ、またここにいる。

私は今隘路に立たされている。
どの道に行ってもいい予感はしない。
どの道かは出口なのなかもしれない。
初めは希望の方が強く前に進む気力もあったはずなのに疲れてと繰り返しに一筋の光を信じる心さえ薄れてきた気がする。もはやここは出口などなく、いつまでも右か左かまっすぐかその選択肢の連綿なのではないか。

はじめは勢いで走ったり、泣きそうになって座って一日、怒りで走り出して、まだまだ!と走り出す時もあって、自分の中はこんなにも力強い感情があることに気づいた。

いずれの道も正解じゃない気がする。
戻るか?でも進まないことにはここに留まることになる。

ここは不思議な場所なのだ。お腹もすかなければ、トイレに行く必要もない。仕事をする必要もなければ、おそらく寝る必要もない場所なのだ。習性として寝てしまうが。疲れも肉体的なものじゃない。心の疲れなのだ。飴が食べたいと思えば降ってくることがある。すごい場所なのだ。

上には何かあるのだろう、全景を見てやるとそう思って壁をよじ登ろうとしたが、垂直に聳える壁に素手とスニーカーでは勝負にはならなかった。上があれば下だって、それも素手でどうにかなるものではなかった。

本当は、ここにいたっていいのかもしれない。
ずっとここに座っているのだっていいのかもしれない。

今がいつかもわからない。周りがどうなっているかもわからない。他に誰かいるかもわからない。

多分誰もいない。そう決めてしまうのは、きっと心が弱ってるからなのかもしれない。自分のためにも誰かと合流しよう、これは出る確率を上げる希望だ。誰か座り込んでいる人がいたら手助けして励まし合って一緒に出よう。素晴らしい、これは偽善感だ。ならば適応能力でここに住むか。心を分析する。

心はフラットに。焦るのは良くない。

また泣くか?もう散々泣いた。今日は歩きたい。


右か、左か、前に行くか、後ろに進むか。どちらも真っ白なはずなのに、仄暗い。どこまでいっても真っ白な壁。

『心をはかる場所』

そんな気さえした。心に向き合え。心の声を聞け。徹底的孤独に向き合う。

壁の白と対象的に自分の心は実に多様な色をしていた。
実際、自分の心がこんなに豊かな色をしていると初めて気づいた。絶望色、強い光に、薄暮。

いつ閉じ込められた。いつ、ここにいることに気づいた。気づいた時にはここにいた。よく考えたらこの部屋のことは知っていた。ここは無機質なのにどこか懐かしい。

落ち着け。心はフラットに。困った時こそそういうふうに自分に言い聞かせる。

まだここで座ってる気分じゃない。一生ここにいたい気分じゃない。それだけはわかってる。

ビジョンを持て。成功して、ここを出るビジョン。出たら何をしたいのか。

それは何度もさまざまなものを思い描いた。

そして、そのうち本当にそれはしたいことなのか、ここの圧倒的壁感に気圧されて萎んでいく。そんな程度の願いではダメだ。本当にそう言われてる気がした。

心をフラットに。

心を篩にかける。本当に望むものは何か。

本当に自分に向き合うとはこういうことなのかもしれない。

いつか出口に辿り着く。いつかも辿り着かない。
どちらかはわからない。

本当はわかってる、ここが本当はそうなんじゃないかと。ここが広くも狭く、複雑で単純な自分の心の中に似てる事。

ここは一生自分が向き合うところ。ここは自分の中の部屋。心の中の出来事なのだと。


気がつくと何度でも辿り着く、ここは心の部屋。


2023/06/04

お題 狭い部屋