宮沢 碧

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『私の梅干し』

宮沢 碧

「あー、それ!それは動かさないで。いいの、いいの、そのままで!その代わりこれお願いできるかしら」
私は新しく入ったバイトさんに指示をする。

 私たちは今日、引っ越しをする。母がカフェを始めてみたいと言うのでお店を新しくするのだ。何代も前から使っていたお店、前田煎餅店はこうしてまもなく伽藍堂になって行き、物を置いていて周りと色の変わってしまった壁や床を私はそっと触って歩いた。飴色に変わった床や棚、おじいちゃんが若かった頃によくタバコを吸っていたと言う窓。瓶がたくさん並んでいたカウンター。たまにお客さんまで入っちゃう掘り炬燵。
「ありがとうね」
からっぽで冷たくなったようなでも、まだほかほかの温もりのするような、まるで起きたての布団のようなぬくもりのする部屋に声をかける。引越しといっても通り2つ離れたところで、まぁ、別にここを売ったり壊したりする訳でもないのだけれども。

「あとはこの荷物だけですね。どこ、持ってきますか?」
私の足元にある大きな段ボールを指差して、焼き担当の職人、源二郎さんが話しかける。
「じゃぁ、私の助手席にお願い。重いので気をつけて下さい」
「わかりやした。おっ、本当だ、重い。そしたらあっしはこれでトラック出しちゃいますね。車で先にお店向かいます」
「ありがとう、そうして下さい。私もすぐ向かうから」
天地無用と書いてある箱を持って源二郎さんは店を出る。
 
 カフェをオープンさせるのは初めてだし、本格的に店を継ぐことになるのはドキドキする。でもこうして私よりもずっと長い間この店で働いてくれているベテランの職人さんも辞めることなくついて来てくれる。新しいバイトさんも入る。初めこそみんなと同じ東京のオフィスワーカーみたいなりたくてどこか気もそぞろに働いていたけれど、これからは違う。母がとは言え、新しいことを始める。やっと自分の中でもワクワクする気がする。何より調べたり、自分の意見を聞かれたり自分が必要とされていることが嬉しくて自分から動こうと言う気が起きて来ていた。

 戸締りをして私は車に乗り込む。シートベルトをする時、助手席の先程運んでもらった段ボールを見て心が弾む。天地無用。中身は私の漬け始めた梅干しだ。今年、私は内緒で梅干しを漬けたのだ。おばあちゃんが毎年の習わしのように漬けていた梅干しのように。この家に生まれてるのだから今更な言い方だが、実のところ梅を漬けるのはまるで『秘伝のタレ』のような気がしてこの家にすっかり馴染んでしまったようで伝統をすっかり継承してしまったようで気が進まず、今まですることができなかった。それを今年はふとやってみようと思えたのだ。勿論昔教えてもらったおばあちゃんのレシピで。心とは不思議なものだ。

 車をゆっくり出す。さぁ、新しい始まりだ。この梅干しでお店に働いている人に賄いを出す。そしていつかは梅ざらめの梅に使えるような家族も職人さんにも認めてもらえるような梅を漬ける。お客さんに喜んでもらう。それが今の私の夢だ。これはまだ誰にも言えない秘密。

 カフェ しだれふじ、前田煎餅店は一週間後にオープンする。


2023/06/05

お題 誰にも言えない秘密

6/6/2023, 10:58:32 AM