目が覚めると車の中で、途端にガタンっと体が揺れてシートベルトが体に食い込んだ。
山道。お父さん運転荒いからな、と少し心配になっていると鼻先に香ったそれ。それに揺り起こされたんだと分かってシートベルトをギリギリまで引き出して助手席を覗き込んだ。
「お母さん、それちょうだい」
「今飲んだらおしっこ近くなっちゃうよ?」
「でもいい匂い」
「少しだけね?ちょっとよ?」
お母さんが好きで飲むミルクティは、いつも少しお化粧の匂いが混じってとっても甘くて安心した。
目が覚めると車の中で、途端にガタンっと体が揺れてシートベルトが体にくい込んだ。
山道。彼氏はそんなに運転が荒くないはずなのに、曲がりくねった急勾配にブレーキテクニックが追いつかないらしい。
ドリンクホルダーに蓋が空いたままになっているそれのお陰で目覚めたんだと分かって、軽く手を伸ばした。
「これ、飲んでいい?」
「いいけど……この山道やばくね?ごめん運転荒くて」
「全然、お父さんのか凄かったし」
この人と一緒にいるとほしくなるのは軽い躍動感。レモンのキリッとした爽やかな香りに誘われて、DJ気取りの思い出のナンバー。
目が覚めると車の中で、途端にガタンっと体が揺れてシートベルトが体にくい込んだ。
山道。助手席から振り返った孫が透き通った琥珀色を揺らして見せた。
「おばぁちゃん紅茶好き?飲む?」
「随分寝てたみたい……」
「もう着くよ、お墓」
「何年ぶりだろね」
「おじぃちゃんの三回忌以来かな?ねぇ、お父さん」
父母と出かけた帰り、彼氏が挨拶に来た時、孫の顔を見せに盆暮れ正月に帰省した時。この山道を登った先に目指した旧家は、もうない。
この山道と共にあるたくさんの思い出の中にいつも紅茶の香りがしていたことを思い出して、その琥珀色を受け取った。
ほんのりとしたミルク感も、お化粧の匂いも、レモンも、躍動感も、もう離れて行ってしまってから、忘れたように飲まなくなった紅茶が、しわくちゃの手に戻ってきた時には気取ったところのない、素朴なストレートに様変わりした。
蓋を捻る。
往年に思いを馳せて。
(紅茶の香りは、思い出ともに今を彩る)
せっかくの休みだというのにいつまでも寝ているし
出先で直ぐに休もうとして全然楽しもうという気が伺えないし
3回に1回の割合で柔軟剤を入れ忘れるし
飲み会ばっか行ってるし
振り返ってみればどうしようもないことだけど、その時の自分にとってはとても大事なことに思えてついカッとなる。
言い合いして、喧嘩になって、二度と口も聞きたくないと、そう毎回思うのだけど、
「おはよ」
まだ寝ぼけたような顔付きに少しだけ気まずさを滲ませたあなたは、いつも必ず、喧嘩の後の朝にだってこの言葉を欠かさずに言ってくれる。
謝るのは違う気がして、でも無視してその言葉を受け流すのはもっと違う気がして、
「………おはよー」
素っ気なく返す私を、なんだそれって笑うあなたに結局いつも絆されてしまう。
(新たな日の始まりは何がなんでも「愛言葉」から)
ぬっ、ぬっ
同じね、と振り向くと貴方だった。
会いに来てくれましたか。もう夏が終わろうというのに、帰ってくる気配もないままとても寂しく思っていましたの。
おかえりなさい。暑かったでしょう。お風呂も、ご飯も、毎日貴方のために用意していますけれど、今日はこのまま、少し話しませんか。積もる話があるのです。
ぬっ、ぬぬっ
実は斜向かいの田中さん、ついせんだって旦那様がお戻りになったとか。それはもうみんな諦めていましたから、お祭り騒ぎです。こんなご時世ですから大したおもてなしができないと済まなそうにする奥様は気丈な方ですから、きっと騒ぎも鎮まってから、おふたりで本当のお祝いをされたに違いありません。羨ましいだなんて、言いませんけどね。
ぬっ、ぬぬぬっ
実は空襲の時、ひとつだけ持って逃げられたものがあったんですけれど、なにか分かります?当ててくださいな。……ふふっ、違いますよ。本当にあなたって人は。私が私の命を持って逃げるだなんてあたりまえじゃないですか。いいですか?正解を言いますよ?それは、
ぬっ、ぬぬぬぬっ
あなたの軍帽です。ご友人だという見知らぬ方が持って帰ってきて下さったものなんですけど、これ、本当に貴方のでしょうか?私が根性大事に持っているのは、貴方が帰る場所に迷わないようにと思ってのことだったのですけど。
ぬっ、ぬぬぬぬぬっ
本当に貴方のものかどうかも分からないし、さっきから私の影ばかり伸びていくし、持っていてもなんだか辛いだけ。もう必要ないかもしれません。だって貴方は私の命を標に戻ってきてくれた。
帰りましょうか。この丘で一人語りするのにも飽きてしまいましたよ。私、まだ積もる話のちょっとも話し終えていませんの。付き合ってくださるでしょ?ずっと待っていたもの。
(「行かないで」とは言えないけれど)