過充

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10/10/2023, 10:09:22 AM

理由なんてない、ただ流れていくだけだ。

人は何でも理由を求めたがる。原因があり結果がある、そんな分かりやすい方程式をやたらと欲しがる。でも流れていく涙に、そんな分かりやすい源泉なんてないだろう。少し想像すれば分かるはずなのに、皆カメラを向けてフラッシュを炊くだけだ。私は目を伏せるしかない。重力に抗うことはできない。こんなに重たい水滴を、支え続けることなんて。できっこない。

10/5/2023, 11:58:54 AM

星座と朝日

古代ギリシャ人のようなセンスがあれば、今日の俺が歩いた軌道に名前を付けて、神話もセットで拵えてくれるかもしれない。少なくとも俺の目には死に損ないのショウジョウバエから取り出したヘトヘトの染色体にしか見えなかった。

酒場にしか居場所がないような男だ。
行きつけの店が急に閉店してからというものの、うまい生ビールを注いでくれる店をずっと探して回っている。今日は仕事終わりに四件回ったが惨敗だった。もう帰りが遅くなっても問題なくなってしまった。ローンだけを残して家族は去っていったからだ。
今の俺には酒場しかない。その俺がうまい酒を失ってしまったら、どこに行けばいいって言うんだ?
オリオン座は見えない。大阪の空はいつも微熱を帯びていて星なんてロクに見えない。水が飲みたいしトイレに寄りたい。空にアルコール臭いため息をひとかたまり吐いて、次の店に向かった。これで最後だ。

アサヒの生ビールは悪くないし、刺身や揚げ物もうまい。店も程よく古くて近隣の会社員が昔から通い詰めているようだ。もう五件目ともなれば腹一杯だがビール2杯と三皿を注文したところで会計を頼んだ。値段を聞くと、計算と違う。どれだけフラフラになろうと、むしろフラフラになるからこそ一品毎に計算している。もちろんお通し代の有無も最初に確認する。だが50円違う。
レジを打ったご主人に「50円多いですよ」と言ったが、五件目でフラついてる俺の顔を見てため息をついた。
「それで合ってますよ」
そしてご主人は調理場に戻ってしまった。団体客が入っているらしい。もう一度計算するが、やはり50円多い。
「やっぱり50円違いますよ!」
大きめの声でご主人に呼び掛けたが、今度は無視された。バイトの店員がすぐそばで代金のトレイを持って待っている。他の客からの視線も感じる。たかだか50円の違いくらい、払ってやった方が穏便に済むかも知れない。でもそんな手段で一歩引くなんて御免だった。美味しい酒場でそんな思いをする必要なんてないはずだ。
「君、一緒に計算してくれないか。俺も酔っぱらっててさ」
そう言ってバイトの女の子に電卓を叩いてもらった。とても嫌そうな顔をしていたが付き合ってくれた。結局50円高く請求されていたことが分かった。
バイトの女の子が調理場のご主人にそのことを伝えると、苦虫を潰したような顔をしたご主人がトレイを手に出てきて「1740円です、これでいいでしょう」と言った。俺は用意していた現金をそのままトレイに乗せた。他の常連客達の視線を感じた。口の中に残るビールの後味は苦く不快だった。

店を出て裏通りに行くと、俺はぐらぐらとふらつく視界の中で立ち小便をした。そして口蓋の奥に人差し指と中指を差し入れて嘔吐した。不快な酒や揚げ物を全て降ろしたくなったのだ。くたびれた革靴と安物のスラックスの裾に吐瀉物の飛沫が引っ付いた。すっかり吐いてしまってから損した気分になり、腹が空いたので近くのコンビニでカップ麺を買った。熱湯を注いだ器を持ち、川沿いのベンチでそれをあっという間に啜ってしまうと眠くなった。明日も仕事なのに、と思いながら重い頭を横たえるように沈みこんで眠った。
気が付くと翌朝の五時過ぎになっていた。川の向こうから朝日のてっぺんが昇ってきて、湿気を帯びた街を柔らかく照らし始めた。もう明るい星も、星座の一つも見えなくなってしまっていた。俺はその時に初めて、自分が本当に失ったもののことを思った。酒場にしか居場所がないような男になってしまった。そして酒場にさえ見捨てられたのだ。

もし現代に古代ギリシャ人の末裔がいたとしたら、煙草と吐瀉物の臭いがする俺に合った星を見つけて天に上げてくれ。そして市営のプラネタリウムで俺の神話を粛々と語り継いでほしい。俺という汚い酔っぱらいの末路にふさわしい英雄譚を。
朝日はしずしずと空に昇り、街は静かに目覚めていく。俺はベンチで寝転がったまま赤星の大瓶のことを考えていた。

10/5/2023, 8:22:19 AM

レッツ・ダンス

踊らない理由を使い果たした私は、姿見の前で途方に暮れていた。
物好きな男性から何度も誘いを受けている。その都度、適当な理由を拵えていたが彼は懲りない。それを嫌とも思えない自分が何とも歯がゆく、それでも最もらしい理由を毎回用意しては安堵していた。まるで一夜毎に命を延ばすシェヘラザードのように。
しかし、どんな物事にも限界がある。いっそ一度踊ってしまった方がいいんじゃないかと考えた私は、誰も見ているはずのない自宅のアパートで練習することにした。踊るなんて中学校以来だ。後夜祭の楽しくもなんともないマイムマイム。手のひらについた他人の汗の嫌な感覚。

ワルツなんて分からない。好きな音楽でノッてみればいい、というネットの文句をとりあえず参考にして、普段聞いている音楽をイヤホンで聞いてみる。さあ、やるぞ…と思ったらCMの耳障りな音楽が間に割って入り、それからオリンピックの時期に繰り返し流れるポップソングの前奏が流れた。
普段から聞く音楽、と言っても「他の人から評価されている音楽」しか知らない。私はとりあえず聞いていたが、それはカラオケに誘われたときに歌う曲をストックしておく為だった。だからサビが終わっても体はまともに動かなかった。部屋着でワイヤレスイヤホンをつけて、両腕を不格好に浮かせた私が棒立ちしているだけだった。私は踊らない理由を作っていたのではない。踊れないだけだったのだ。それこそ小学生の頃からずっと使ってきた姿見は残酷なまでに私の姿を晒していた。

「踊り方が分からないんです」
私は再三の彼の誘いに、そう返した。彼にとっても予想外の答えだったのだろう、慎重ながら怪訝な表情を浮かべていた。
「私、踊れません。ごめんなさい」
彼は困ったように頬を掻いてから、こう言った。
「僕だって分かんないよ」
私は顔を上げた。どんな表情をしているのか、彼は姿見じゃないから分からない。
「でも踊ってみるんだ。めちゃくちゃでも楽しいよ」

私は踊ってみることにした。