レッツ・ダンス
踊らない理由を使い果たした私は、姿見の前で途方に暮れていた。
物好きな男性から何度も誘いを受けている。その都度、適当な理由を拵えていたが彼は懲りない。それを嫌とも思えない自分が何とも歯がゆく、それでも最もらしい理由を毎回用意しては安堵していた。まるで一夜毎に命を延ばすシェヘラザードのように。
しかし、どんな物事にも限界がある。いっそ一度踊ってしまった方がいいんじゃないかと考えた私は、誰も見ているはずのない自宅のアパートで練習することにした。踊るなんて中学校以来だ。後夜祭の楽しくもなんともないマイムマイム。手のひらについた他人の汗の嫌な感覚。
ワルツなんて分からない。好きな音楽でノッてみればいい、というネットの文句をとりあえず参考にして、普段聞いている音楽をイヤホンで聞いてみる。さあ、やるぞ…と思ったらCMの耳障りな音楽が間に割って入り、それからオリンピックの時期に繰り返し流れるポップソングの前奏が流れた。
普段から聞く音楽、と言っても「他の人から評価されている音楽」しか知らない。私はとりあえず聞いていたが、それはカラオケに誘われたときに歌う曲をストックしておく為だった。だからサビが終わっても体はまともに動かなかった。部屋着でワイヤレスイヤホンをつけて、両腕を不格好に浮かせた私が棒立ちしているだけだった。私は踊らない理由を作っていたのではない。踊れないだけだったのだ。それこそ小学生の頃からずっと使ってきた姿見は残酷なまでに私の姿を晒していた。
「踊り方が分からないんです」
私は再三の彼の誘いに、そう返した。彼にとっても予想外の答えだったのだろう、慎重ながら怪訝な表情を浮かべていた。
「私、踊れません。ごめんなさい」
彼は困ったように頬を掻いてから、こう言った。
「僕だって分かんないよ」
私は顔を上げた。どんな表情をしているのか、彼は姿見じゃないから分からない。
「でも踊ってみるんだ。めちゃくちゃでも楽しいよ」
私は踊ってみることにした。
10/5/2023, 8:22:19 AM