球体を想像していたけれど どうやら四角いようだ
銀色を想像していたけれど どうやら赤色のようだ
圧縮も敷き詰めも出来ない 心中の数多の感情達を
文に 紙に 書いたそれは
丸くもなく無機質な銀色でもなく
角ばっていて血のように赤く炎のように赤かった
まるで何かに傷付いているかのように
まるで何処かを恐れているかのように
しかしその手紙は 苦しさがあると云う訳でもなく
その色から文から 微かな哀愁のみを漂わせ続けた
数多ある感情達を 掬って運ぶその四角い赤い箱は
地中で 時を 止めていた
題材【10年後の私から届いた手紙】より連想で【タイムカプセル】
連想を思うがままに書くと、表現がバラバラで分かりにくくなる傾向
スペース確保
前日の【伝えたい】は一応投稿しました
題材【待ってて】より
大切な人に伝えたい
この思いの生簀から
新鮮なまま少しずつ拾って行き
少しずつ伝えているのだけれど
気付いているのかな
思いと云う物は
言葉で伝えられるが
単語にした瞬間
何処か安っぽくなる
だから私は直接
言葉では伝えない
音にする
声にする
言葉にする
詩にする
歌にする
表現をする
全てを使って思いを掬い
時に君に虹をかけて見せては
全く伝わらないから時折
直接水をぶっ掛けたりもする
それでも何時も通り笑い
歩く君が私に気付かないから
流石に私は
「好き」と
言ってしまいたくなった。
題材【伝えたい】より
小説を書いているので、スペース確保です。
題材【この場所で】より
※スペース確保していた題材【どこにも書けないこと】を投稿しました
みんな、みんな、みんな。みんなって何だろうか、というも思う。学校の中の、全生徒?知っている人全員?それとも、宇宙に住むすべての人?おそらく、決まってはいないのだろう。言う側も、詳しくは決めて言っていない。決めずに、「みんなそうだよ。」と言うのだ。
慰められている、と感じる。「みんな」という単語を使う時、私は、二つの場合があると思っている。一つ目は、「私だけ、~なの。」という愚痴に対して、「大丈夫、みんなそうだよ。」と言うとき。このとき相手は「貴方だけがそうじゃないんだから、安心して。」と、私に『みんなと一緒』である事を教えて安心させようとしている。私はよく、こうやって友人に慰められている。
二つ目は、「私だけ、~なんだ。」という自慢に対し、「いや、みんなそうでしょ?」と言うとき。このとき相手は「貴方が特別なわけじゃない」と、私に『みんなと一緒』であることを求めているのだ。
二つとも、『みんなと一緒』という単語を出したが、上記の例からも分かるように、私は私もしくは周囲の人間が、普段それを求めているように感じる。
一つ目では、『落ちこぼれ』という言葉があるように、『みんなと一緒』でない事を私は良しとしていない。二つ目では、『特別』という言葉があるように、私は自分だけが違う事に誇りを感じているが、友人はそれに反感を抱いて、『みんなと一緒』であることを求めている。まあ、単に自慢話が嫌なだけな可能性もあるが...。だがしかし、日本では『みんなと一緒』でいる事、つまり協調性がより求められるのも事実だろう。
もうひとつわかる事と言えば、『みんなと一緒』ではない場合の捉え方が、蔑称としての『落ちこぼれ』『異端』などのマイナス思考や、敬称としての『特別』『優等生』といったプラス思考に二極化するという事だ。では、そこの違いは何だろうか。
例えば学校のクラスで、普段他の生徒は静かなのに対し、一人だけずっと発言をしているAさんがいるとする。この時喋る、喋らないの点で言えば、Aさんは『みんなと一緒』ではないのだろう。この時、貴方ならどう取るか?
恐らく、それはAさんへの好感度や、周囲がどれほど『みんなと一緒』を求めるかなど、多くの要素に起因するだろう。この場合Aさんは大して好印象も悪印象も持ってないだろうが、周囲はどちらにでも取り得る。そこが、私にとっては不思議で、しかし共感できるところだ。安心、協調、平均。『みんな』という言葉はとても深い。
題材【誰もがみんな】より
何時ものように書こうとすると「誰もがみんな照らし出されて」(今夜月の見える丘に/B'z)が頭をまわるものですから...