ここは、街の片隅。小さな酒場のステージで、情熱的な音楽に合わせて、髪をふりみだし、全身を躍動させ、音楽の世界を表現する。
私はアリッサ。年は19。職業:踊り子。
私は、生きるために踊っている。
かつては、情熱があった。高揚もあった。しかし、いつからか、それらはなくなってしまった。
生きるために、必死に踊ってきた。
生きるため、お金を稼ぐ手段。今の私にとって、踊りはそういうもの。そういうものの、はずだったのに。
(やばい、時間に遅れちゃう……!)
仕事の前に少し買い物するだけのつもりが、店主のおしゃべりにつかまり、だいぶ遅くなってしまった。
何分後に酒場に着いて、着替えに何分、化粧に何分、と頭の中で計算しながら、路地を走る。
角を曲がった瞬間、向こうから来た人物に、思いっきりぶつかってしまった。
私は衝撃で、尻もちをつく。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
低い男性の声が頭上に響いて、大きな手が差し出された。
私は、その手を無視して、立ち上がる。
「ちょっと、もっと注意して歩きなさいよね!」
顔を上げ、自分の不注意も棚に上げて言った私の目に、相手の姿が飛び込んできた。
柔らかそうな赤茶色の髪。スッと通った鼻筋。眉は申し訳無さそうに下げられている。その下の澄んだ緑の目と目が合って、私は硬直した。
(すっっごい好みなんですけど!?)
「申し訳ありません。お怪我はありませんか?」
彼は重ねて尋ねてくる。
「え、あ、いや、別に大丈夫ですし……ていうかそちらこそ!?あ、私急いでるので……!」
顔の前で両手を激しく振りながら、しどろもどろに答え、私は逃げるように彼の脇をすり抜けて、酒場へ急いだ。
酒場に着いて、身支度を整える。走ったせいか、先ほどの思わぬ出会いのせいか、バクバクとうるさい鼓動を落ち着ける。
ステージへ向かう通路を歩く。
照明に照らされた壇上に立つ頃には、心は凪いでいた。
客へ一礼する。音楽が始まる。いつも通り、身体を動かす。
1曲目が終わり、客席を見渡す。私の踊りはこの酒場の名物だ。これを観にここへ来る客も数多い。観客たちは、こちらを熱心に見つめて、拍手と歓声を送っていた。
いつも通りの光景、その中に、異質な赤茶色が入り込んできて、胸がドキリと高鳴った。さっきの男性が、この酒場へやってきたのだ。まさか、また会えるなんて。
目が合う。呼吸が止まりそうになる。
ドキン、ドキン、高鳴りが止まらない。もう次の曲が始まるのに。
2曲目は、情熱的な初恋を曲にしたもの。私のステージの定番の曲。
曲が始まった。反射的に身体は動き、踊る。
いつも通りの仕事のはずなのに、私の心はちっともいつも通りじゃない。
あの緑の瞳が私を見つめてるかもと思うと、なんだかいつもより曲が身体に響く感じがする。動きに熱がこもる。彼が気になって、ずっと視界に入れていたくてたまらない。
(ああ、これが、恋なのね)
この曲の意味が、前よりもずっとよく理解できた。
動きに心がのる。
情熱が胸に宿って、身体と心が躍動した。
最近、親友にボールペンをもらった。
軸は深い緑色(わたしの好きな色だ)をメインに、上品な金色で花の模様が描かれているものだ。
誕生日プレゼントにとくれたもので、気持ちだけでも嬉しかったのに、デザインもとても好きなものだったので、わたしは余計に喜んだ。このボールペンを使いたいが為に、新しくノートを買って、日記を書き始めたほどだ。
日記の行数は毎日3行ほど。内容は、必ずポジティブなものにすると決めた。『今日は〇〇を頑張った』とか『夜に食べた△△が美味しかった』とかそんな小さな『良かった』を綴る。
その日つらいことがあっても、ダメな自分がいたとしても、日記を書き終わる頃には、書く前よりも自分を少しだけ許してあげられる。ギュッと強張っていた心が、フワリと休まる。
そんなひとときが、今日もわたしを生かしている。
年末。
久しぶりに帰った実家で、ゴロゴロしながらスマホをいじっていたときのこと。
『もういなくなりたい』
『私なんて生きてても意味ない』
SNSを眺めていたら、そんな投稿が流れてきた。投稿時間は5分前。
何気なく投稿主の名前を見て、私はガバリと起き上がった。コートとマフラーを雑に身につけて、家を飛び出す。
投稿主は、幼稚園からの幼馴染のカナちゃんだった。私が上京して以来疎遠になって、もう5年は会ってない。今は、SNSで繋がってるだけの間柄だ。
確か、まだ実家に住んでいたはず――。
記憶の中のカナちゃんの家へと走る。
頭の中を巡るのは、今走っている理由。小さい頃一緒に遊んだ思い出もそうだけど、一番は、高3の終わり。受験に失敗して浪人決定して、絶望してた私の手を握ってくれた、カナちゃんのぬくもり。「大丈夫だよ。」優しくて強い、言葉と眼差し。
私は、根拠のないその言葉に、カナちゃんの優しい力強さに、救われたから。カナちゃんが傷ついてどうしようもないときは、私がカナちゃんを助けようって思ったんだ。
きっと、今がそのとき。
左手に三角公園、カナちゃんの家までもうすぐだ、と思ったとき、公園のベンチにうつむき座る女性を発見して、私は急ブレーキをかけた。
「カナちゃん!!!」
叫べば、女性は顔を上げた。私の顔を見て、目を見開く。
「もしかして、アキちゃん……?どうして……?」
その目から、ポロリと雫が溢れ落ちた。
私は駆け寄り、思いっきり彼女を抱きしめた。
「受験のとき凹みまくって死にそうだった私を助けてくれたこと、今でも感謝してる!ありがとう!!」
彼女が身じろぐ。私は、構わず続けた。
「この5年、SNS見て、カナちゃんもどっかで頑張ってるんだと思って、私も頑張ってた!一緒に頑張ってる気持ちになってた!」
抱きしめた腕を緩めて、彼女の濡れた瞳をまっすぐ見つめて、私は、言葉を伝える。
「だから、大丈夫!!」
何の事情も知らないけれど。めちゃくちゃかもしれないけれど。それでも、あなたに伝えたい。
“私は、あなたに生きててほしい”
たったそれだけの思いを、力を込めて、言葉に乗せた。
人生にはいろいろな岐路がある。
このときこうしていれば、あのときああしていれば……小さなことから大きなことまで、私にもたくさんあった。
今、一番思うのは、あの日、君への連絡を絶ったこと。
君の行動が、あのときの私にはつらかった。あのときは、君の気持ちがわからなかった。だから、もうこの関係は続けられないと思った。
それが、今では、わかるようになってしまった。
あのときの君は、こんな気持ちだったのではないかと、想像できるようになってしまった。
あれから、私にもいろいろあったから。
今では、君ともわかり合うことができるかもしれないと、思ってしまう。自分から絶った関係に、夢を見てしまう。それはきっと、君と過ごした日々には、よろこびが確かにあったからだ。
もしかしたら、本当にわかり合えるかもしれない。
もしかしたら、君もまた変わって、わかり合うのは難しいかもしれない。
ねえ、あれから君はどうしていますか。
私との日々は、まだ君の中にありますか。
君との日々を想いながら、今日も私は、こたえのない問いを繰り返すのです。
真冬の夜、仕事の帰り、独り、バスを降りて、溜まっていた息を吐き出しながら、空を見上げた。
よく晴れた都会の夜空。星は少ないが、特徴的な三連星はすぐに見つけられた。オリオン座のトライスターベルト。そこから星を辿っていけば、オリオンの全容が捉えられる。
――ああ、大きいな。
単純な感想が、ふわりと胸に浮かぶ。
それは、胸の中にあった他を押しのけて、広がっていく。
大きな輝きで心が満たされて、痛みも、悩みも、ちっぽけに思えてくる。
その場で立ち止まって深呼吸をした。冬のキリリと冷たい空気が肺に満ちて、気持ちがよかった。
見上げた空には、偉大なオリオン。
ここにあるのは、さっきより軽くなった心と体。
明日も、頑張れそうな気がした。